、寺の門の内の藤棚の下へ避難していた。そこに太った氷屋の老婆がおどおどして立っていた。
「お婆さん、けがはなかったのですか」
 背の高いそこの女も不安な顔をして立っていた。
「先生、火事だというじゃありませんか」
 神田方面が火事になったとその女が言った。私は寺の門を離れて坂の上へと往った。広い電車通りには街の両側の人びとが溢れ出て、線路の上に避難していた。電車はそこここに投げ出されたようになっていた。両側の家家の屋根瓦は剥げ落ちて、瓦の下に敷いたソギが現れていた。私は俳友の鈴木寿月君のことが気になったので、右の方へと曲って往った。寿月君の宅はすぐ通路の左側のパン屋の横になった路次の奥にあった。私は人びとの避難している線路を横切って路次の方へ往こうとしたが、どうもやはり線路の上に避難しているらしいので、路次の入口になった線路の所に眼をやった。小柄な寿月君の細君が、線路の上に敷いた筵の上に坐って洋傘をさし、嬰児を膝にしていた。
「や、奥さんですか、大変なことでしたね、けがはなかったのですか」
「私たちはなんともなかったのですが、やどが横須賀へ往ってるものですから、それを心配してるのですよ」
 砲兵工廠に勤めている寿月君は、暑中休暇を利用して横須賀へ遊びに往っているところであった。
「横須賀は、そんなことはないでしょう、大丈夫ですよ」
 私はそんな気休めを言って引き返したが、その実心配でたまらなかった。私はそれから坂の左側になった小さな洋食屋の前へと往った。私はその前の線路の上にも、椅子に腰をかけた五六人の人びとを見出した。
「お宅はなんともありませんでしたか、たいへんなことになりました」
 むすめむすめした商売屋のお神さんらしくない洋食屋のお神さんが、涙ぐましい声で挨拶した。その神さんの傍に鼻の黒子《ほくろ》の眼につく可愛い女が、人なつこい顔をしていた。
「どうだね、びっくりしたかね」
 私は坂をおりて寄宿舎の庭へ帰ろうとしたが、煙草が飲みたくなったので、校長の店によって敷島を五袋もらい、ついでに夜の燈火のことを思い出して十本の蝋燭ももらって出た。
「えらい地震がしましたね」
 牛込新小川町の下宿にいる若い友人が、心配して見に来てくれたところであった。私はその友人を伴れて寄宿舎の庭へと往った。
「神田方面はひどい火事ですね、砲兵工廠も燃えていますよ」
 寄宿舎の門からすぐ近くになった切支丹坂《キリシタンざか》の方の空には、白い牛乳色をした入道雲のような雲が二つ盛りあがっていて、その下になった方が煙り立っていた。それは陽の反射によって火事の煙が二様に見えているのであった。
 寄宿舎の庭では和智君が帰りたがっていた。私は切支丹坂下の乗りつけの車屋へ往ったが、曳子がいないので、後から来るように言っておいて帰って来た。寄宿舎の上の簷の崩れた家の主人であろう、一人の男が寄宿舎の横の谷間のような所から這いあがって往って、崩れた崖へかかっている家具の間を彼方此方《あちこち》していたが、見ている内に軸物のような物を二つばかり拾った。地震が来るとこわれかかった家の簷がぐらぐらと動いて今にも落ちて来そうに見えたが、その男はやめなかった。
「熱海の魚見岬で、子供が草履を落したので、それが惜しくて、岩の上から覗いていて、すべり落ちて死んだお母さんがあったよ、今にあの男も死ぬるから見給え」
 私は若い友達を伴れて再び藤坂をあがって伝通院の方へと歩いた。それは砲兵工廠の火を見るためであった。線路の上に捨てられた電車は、そのまま付近の人びとの避難所になっていた。街路の左右には避難者の人浪が打っていた。
 街路のゆくてには煙が空を焦がして陽の光が黄いろくなっていた。伝通院はすぐであった。その向うには砲兵工廠の一つの建物に赤い火の這いかかっているのが見られた。大砲を打つような音が時どきした。私たちは伝通院前から右に折れた電車の線路になった坂をおりた。その広い安藤坂の中央の左側にある区役所の建物の下手になった人家の簷には、蛇の舌のような火が一面にあがっていた。私たちは坂を降りて江戸川|縁《べり》を船河原橋の方へと往った。片側町の家の後はもう焼け落ちて、その火は後の砲兵工廠の火に続いていた。
 私たちはそれから飯田橋を渡って甲武線の線路の上に出た。九段から神田方面にかけて一面の火の海で、中でも偕行社らしい大きな建物に火のかかっている容は悲壮の極であった。黄いろな陽の光を掠《かす》めて業風《ごうふう》のような風が吹いて、それが焔を八方に飛ばし、それが地震で瓦を落した跡の簷のソギをばらばらと吹き飛ばしていた。振り返って砲兵工廠の方を見ると、一段と色の濃い火の中に青や赤の色の気味悪い火を交えて見えた。火薬の爆発するらしい音もそれに交って聞えた。
 私はそれから東五軒町へ往って服部耕石翁を見舞い、それから若い友達と別れて寄宿舎の庭へ帰った。そして夕方になって、やっと[#「やっと」は底本では「やつと」]車を得て和智君を帰した。
 私たちはそこで家内が持ち出して来た飯櫃《めしびつ》の飯を喫《く》って、不安な夕飯をすまし、筵二枚並べて敷いた上に蒲団を敷いて横になった。その私たちの傍には太田という漢学者の一家が避難していた。蝋燭の灯が其処此処に燃えた。
 夕暮の東北の空は真赤に焼け爛《ただ》れて見えた。そして一睡して眼を開けると、うす赤い月が出ていた。
 地は時どき揺れた。



底本:「貢太郎見聞録」中公文庫、中央公論社
   1982(昭和57)年6月10日発行
底本の親本:「貢太郎見聞録」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
   1926(大正15年)12月
入力:鈴木厚司
校正:多羅尾伴内
2003年8月27日作成
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