は欅があり、向う隣の二階家の屋根の上に見える一本の白楊は、葛の葉のような白い裏葉を見せていた。その二階家の向うは総門の左側の角になって、木造の青ペンキ塗りの古いシナ人の下宿があった。墓地の樹木は崖の上の樹木に続いて、その間に一軒の高い窓の家は下宿屋であった。下宿屋の上の家並は大塚の電車通りに沿うた人家で、総門の右側には雑貨店をやっている小学校の校長の住んでいる二階家があって、その向うには墓地の続きになった所に建った大きな建物の簷《のき》が僅かに見えていた。それは奈良県の寄宿舎であった。寄宿舎の右寄りの上にも二軒の二階家が涼しそうな顔を見せていた。
 それはもう十一時を過ぎていた。私は胃の勢いであろう物が喫いたくなったので、早い昼飯をこしらえさしてそれを喫い、裏崖に向った窓の下に据えた机の前に往って、泉筆を持って書きさしの原稿紙に三四字書いたところで、家内があがって来て来客を知らした。
「ワチっていう方が見えました」
 私はすぐ大町桂月翁の許に寄宿していたことのある和智君ではないかと思った。で、家内に言いつけてあげてみると、果してその和智君であった。和智君は痩せて背のひょろ長い体に洗い晒《ざら》した浴衣を着ていた。私は和智君とは一度しか逢ったことはなかった。それはもう六七年前のことであったが、眼玉の出た神経的な特異な眼に記憶があった。和智君はエヤーシップの袋を出して火を点《つ》けた。
「大町先生の門口まで往ったが、ひっ返して来ました」
 和智君は東京から帰って朝鮮あたりで新聞記者をしていたと言った。
「アメリカへ往くつもりで、渡行免状をもらったところで、親爺が病気になったものですから、よしたのです」
 と、和智君が言いかけたところで、どう、どう、という風の音とも遠雷とも判らない物の音がして、その音が地の底に響いたように感じた刹那、家がぐらぐらと揺れだした。ちょうど大波の上に乗った小舟のように揺れて、畳がむくむくと持ちあがりそうになった。がらがらばらばらと物の崩れるような音や倒れるような音が、周章《あわ》てた私の耳に入った。
「地震だ」
 私と和智君ははね飛ばされたように起ちあがった。私は畳の上を二足ばかりひょろひょろと歩いた。
「おい、地震だ、地震だ」
 下から女の児の泣き声と家内の叫ぶ声とが同時に聞えて来た。私はふと家内と子供を二階へ伴れて来ようと思った。それは安政
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