すぐ近くになった切支丹坂《キリシタンざか》の方の空には、白い牛乳色をした入道雲のような雲が二つ盛りあがっていて、その下になった方が煙り立っていた。それは陽の反射によって火事の煙が二様に見えているのであった。
 寄宿舎の庭では和智君が帰りたがっていた。私は切支丹坂下の乗りつけの車屋へ往ったが、曳子がいないので、後から来るように言っておいて帰って来た。寄宿舎の上の簷の崩れた家の主人であろう、一人の男が寄宿舎の横の谷間のような所から這いあがって往って、崩れた崖へかかっている家具の間を彼方此方《あちこち》していたが、見ている内に軸物のような物を二つばかり拾った。地震が来るとこわれかかった家の簷がぐらぐらと動いて今にも落ちて来そうに見えたが、その男はやめなかった。
「熱海の魚見岬で、子供が草履を落したので、それが惜しくて、岩の上から覗いていて、すべり落ちて死んだお母さんがあったよ、今にあの男も死ぬるから見給え」
 私は若い友達を伴れて再び藤坂をあがって伝通院の方へと歩いた。それは砲兵工廠の火を見るためであった。線路の上に捨てられた電車は、そのまま付近の人びとの避難所になっていた。街路の左右には避難者の人浪が打っていた。
 街路のゆくてには煙が空を焦がして陽の光が黄いろくなっていた。伝通院はすぐであった。その向うには砲兵工廠の一つの建物に赤い火の這いかかっているのが見られた。大砲を打つような音が時どきした。私たちは伝通院前から右に折れた電車の線路になった坂をおりた。その広い安藤坂の中央の左側にある区役所の建物の下手になった人家の簷には、蛇の舌のような火が一面にあがっていた。私たちは坂を降りて江戸川|縁《べり》を船河原橋の方へと往った。片側町の家の後はもう焼け落ちて、その火は後の砲兵工廠の火に続いていた。
 私たちはそれから飯田橋を渡って甲武線の線路の上に出た。九段から神田方面にかけて一面の火の海で、中でも偕行社らしい大きな建物に火のかかっている容は悲壮の極であった。黄いろな陽の光を掠《かす》めて業風《ごうふう》のような風が吹いて、それが焔を八方に飛ばし、それが地震で瓦を落した跡の簷のソギをばらばらと吹き飛ばしていた。振り返って砲兵工廠の方を見ると、一段と色の濃い火の中に青や赤の色の気味悪い火を交えて見えた。火薬の爆発するらしい音もそれに交って聞えた。
 私はそれから東五軒町へ往
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