に、も一個《ひとつ》用意に造えて置こうと思った。彼は鍋の冷え切らないうちにと急いでそれを火にかけた。そして、一つ二つ型から弾を出した後に、鍋の中を覗いて鉛が熔けたのを見ると、それを残りの型に鋳込んだ。
備後は前日鍛精込めて造えた十匁弾を持って、朝早く一人で家を出て北山へ往った。そして、彼方此方と獣のおりそうな処を捜して歩いたが、平生《いつも》はよく見かける猿さえ見えなかった。彼は寒い風の吹く谷の路を下のほうへおりていた。山の上の方には寒い夕陽の光があったが谷の中は微暗かった。路の左手に大きな巌《いわ》が聳えていて、ふと見るとその大巌の上に眼の光る山猫とでも思われるような獣がいた。彼は朝から一発も放さないでじりじりしている時であったから、讐《かたき》にでも出会ったようにいきなり銃《つつ》の口火へ火縄をさした。と、何かに弾の中《あた》った音がした。
「ひとーツ」
物の数を数える声とともに激しい嘲笑が聞えた。備後は驚いて巌の上を見た。怪しい獣は前肢の一方に何か黒いものを握っていた。数とりと嘲笑はたしかにその獣からであった。備後はますます驚いて、手早く二発目の弾を込めて火を点けた。と、また何かに的中した。
「ふたーツ」
数とりの声が嘲笑に交って聞えた。奇怪至極のことであった。彼はまた三発目を放した。
「みーツ」
弾はその怪獣の手にした黒い器に的《あた》るらしかった。備後は四発目を打ちかけた。
「よーツ」
流石の備後も周章《あわ》てぎみであった。
「いーつツ」
怪獣は順々に備後の弾の数とりをして往った。備後の眼は血走っていた。
「とう」
十の数とりをしてしまった怪獣は、弾を受けていた黒い器を備後に向けて投げつけた。
「備後、もう、弾はあるまい」
怪獣は巌の上に立ちあがってぎらぎらと眼を光らし、いきなり飛びかかりそうな気配を示した。備後の腰の皮袋には余分に鋳たまだ一個の弾があった。彼は手早くその弾をこめて放した。怪獣は恐ろしい叫びをあげてからその姿を消してしまった。
備後はたしかに今の弾が怪獣に当ったと思った。彼はその辺《あたり》を探して歩いたが、それらしいものは見つからなかった。彼は怪獣の投げつけた黒い器を拾って帰った。帰りながら見るとその器は古い茶釜の蓋で、それには己《じぶん》の打ったらしい弾の痕が数多《たくさん》残っていた。
備後は家へ帰って怪獣の話をして、持って帰った古茶釜の蓋を出した。それはその日に見えなくなった己の家の茶釜の蓋であった。其処で飼猫を詮議して見ると、それも朝から何人《たれ》も見た者がなかった。備後を悩ました怪獣はたしかに彼の猫であろうと云っていると、五六日して備後の室の辺が非常に臭くなった。畳を剥いで床下を調べて見ると、彼の赤毛の飼猫が血に染まって死んでいた。その胸のあたりに弾痕があった。
柴田家ではその猫に迷信を持って小さな祠を建てて祭った。
柴田家は今の高知市本町四丁目の南側で、その邸跡に近年までその祠があったが、今は数多《たくさん》の人家が出来てその祠もどうなったのか消えてしまった。
底本:「日本の怪談」河出文庫、河出書房新社
1985(昭和60)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年
入力:大野晋
校正:地田尚
2000年5月30日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング