れから本所へ飛火して、回向院の辺、深川。そして永代橋の西半分を焼いて翌朝になって鎮まった。それには千三百の焼死者があった。
江戸ではその火事を地震火事と言った。江戸の火事のことを言うと、その以前寛永十八年正月にも大火があり、明暦三年正月十八、十九の両日にも大火があった。わけて明暦の大火は江戸未曽有の大火であったから、市民は由比丸橋の残当の放火であろうと言って恐れ戦《おのの》いた。それは明暦三年正月十八日の未の刻で、本郷丸山の本妙寺の法華宗の寺から出火して、折りからの北風に幾派にも分れた火は、下谷の方は神田明神から駿河台へ飛火し、鷹匠町の辺、神田橋の内へ入って、神田橋、常盤橋、呉服橋などの橋も門も番所も焼き払い、西河岸から呉服町、南大工町、檜物町、上槇町、それから横に切れて大鋸町、本材木町へ移り、金六町、水谷町、紀国橋の辺から木挽町を焼き、芝の網場まで往った。下町の方は、須田町、鍛冶町、白銀町、石町、伝馬町、小田原町、小船町、伊勢町を焼き、川を越えて、茅場町、同心町、八丁堀に及んだ。その火が伝馬町に移った時、伝馬町の獄では囚徒を放った。その囚徒は東へ走って浅草門を出た。浅草門の門番は囚徒を逃がしてはならんと思って門を締めたので、火に追われて逃げて来た市民はそこで無数に焼け死んだ。東の方の火は、佐久間町から柳原を一嘗めにして、浜町、霊岸島、新堀から鉄砲洲《てっぽうず》に移って、百余艘の舟を焼いたがために、佃島、石川島に燃え移り、それから深川に移り、牛島、新田にまで往った。その火は翌日の辰の刻になって止んだが、その日の午の刻になって、昨日から吹き止まない大風に吹き煽られて小石川伝通院前の鷹匠町から発火した。そしてその火は北は駒込から南は外曲輪に及んだが、日暮ごろから風が変ったために曲輪内の諸大名の邸宅を焼き、数寄屋橋の内外、日本橋、京橋、新橋を焼いて鎮まった。しかしその一方、未の刻に麹町から出た火があって、雉子橋、一つ橋、神田橋に及び、また北風になった風に煽られて、八重洲河岸、大名小路を嘗め、西丸下桜田に至って二つに別れ、一方は通町に出で、一方は愛宕下から芝浦まで往った。この火に江戸城の本丸並びに二三の丸も焼けたので、将軍家綱は西の丸に避難した。この火には諸大名の邸宅五百軒、神社仏閣三百余、橋梁六十、坊街八百を焼失したが、市民の屋舎の焼失した数は判らない。その時の死人は、「本庄に二町四方の地を賜ひ、非人をして死骸を船にて運ばしめ、塚を築きて寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名づけしめ給ふ」と武江年表に書いてあるが、これが回向院の起りである。その明暦の大火は俗に振袖火事という名があって、奇怪な因縁話がまつわっている。
寛永四年十月には、山城、大和、河内、摂津、紀伊、土佐、讃岐、伊予、阿波、伊勢、尾張、美濃、近江、遠江、三河、相模、駿河、甲斐、伊豆、豊後の諸国にわたって大地震があって、人畜の死傷するもの無数。そして土佐、阿波、摂津、伊豆、遠江、伊勢、長門、日向、豊後、紀伊などの海に面した国には海嘯があったが、そのうちでも土佐などは海岸の平地という平地は海水が溢れて被害が大きかった。「基※[#「熈」の「ノ」の左側に「冫」、第3水準1−14−55]公記」などには、「四国土佐大震国中十に七つ破損、人民四十万人死」としてあるが、実際は二千人ぐらいであったらしい。その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相駿三箇国の田圃を埋めた。その宝永の五年十一月に浅間山が噴火し、享保二年一月三日には日向の鶴鳴山が噴火した。
正徳元年二月には美作、因幡、伯耆、山城、同四年三月には信濃、享保三年七月には信濃、三河、遠江、山城、同年九月には信濃の飯山、同十年九月と十月には長崎、同十四年七月には能登、佐渡、同年九月には岩代の桑折《こおり》、宝暦元年四月には越後、同五年三月には日光、同十二年九月には佐渡、明和三年一月には陸奥の弘前、明和三年二月にも弘前、同六年七月には日向、豊後に大きな地震があり、安永七年七月には伊豆大島の三原山の噴火があった。安永八年十月には桜島の大噴火があって、山麓の村落に火石熱土を流して、死亡者一万六千余人、牛馬二千余頭を斃《たお》した。この噴火のために島の付近に新島嶼が湧出したことは序記に言ってある。
天明二年七月には、相模、江戸に大きな地震があった。三年七月には、浅間山の大噴火があった。寛政四年一月には、肥前温泉岳の普智山の噴火があった。同十一年五月には、加賀の金沢に地震があって、宮城浦に海嘯。享和二年十一月には、佐渡に地震があって、小木湊に海嘯。文化元年六月には、羽前、羽後に地震があって象潟《きさがた》に海嘯。また文化九年十一月には、武蔵に地震があった。文政四年十一月には、岩代の地震。同五年閏一月には胆振《いぶり》にあって、それには有珠嶽が噴火した。文政にはまた十一年十一月に越後の地震があった。
天保元年七月には、山城、摂津、丹波、丹後、近江、若狭、同二年十月には肥前、同四年十月には佐渡、同五年一月には石狩、同七年七月には仙台、同十年三月には釧路、同十二年には駿河、同十四年三月には釧路、根室、渡島、弘化四年三月には信濃、越後、嘉永六年二月には相模、駿河、伊豆、三河、遠江に大きな地震やそれに伴う海嘯があって、次に来る安政大変災の前駆をなしている。
有名な安政の地震は、元年十一月四日と二年十一月二日の二回あって、江戸に大被害を蒙らしたのは二年の地震であった。安政には既に元年六月十五日になって、山城、大和、河内、和泉、摂津、近江、丹波、紀伊、尾張、伊賀、伊勢、越前の諸国にわたって大きな地震があった。
十一月四日の地震は、その日に東海、東山の両道が震い、翌日になって、南海、西海、山陽、山陰の四道が震うたが、海に沿うた国には海嘯があった。この地震は豊後海峡の海底の破裂に原因があって、四国と九州が大災害を被っている。
二年の地震は、紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、豊前、豊後、筑前、筑後、壱岐、出雲、石見、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、摂津、河内、若狭、越前、近江、美濃、伊勢、尾張、伊豆一帯が震うて、摂津、紀伊、播磨、阿波、土佐、伊豆の諸国には海嘯があったが、この地震は江戸の地震と言われるだけに江戸が非常にひどかった。武江年表には「十二月細雨時時降る、夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の二点大地俄に震ふこと甚しく須臾にして大厦高牆を顛倒し倉廩を破壊せしめ、剰さへその頽れたる家家より火起り熾に燃えあがりて、黒煙天を翳め、多くの家屋資財を焼却せり」と言って、地震と共に二十四箇所から火が起って惨害をほしいままにしたことを書いてある。その焼け跡は長さ二里十九町で幅が二町余であった。変死人は七千人。この地震に水戸の藤田東湖と戸田忠太夫の二名士が斃れた。
火事は江戸の花と言われるくらい、江戸時代には地震以外にもたくさんの火事があった。享保五年三月にも同九年二月にも、寛政四年七月にも安永元年十二月にも、文化三年三月にも同十二年三月にも、天保九年四月にも弘化元年正月にも、同三年十二月にも慶応二年にも恐ろしい火事があった。
五 維新以後の災変
安政元年二月の大地震後、大きな地震はその年の十月と三年の十月に江戸にあった。そして安政三年七月には渡島、胆振にあって、それには海嘯《つなみ》があった。同四年閏五月に駿河、相模、武蔵、同年七月に伊予、同五年二月に越中、越前、同年三月に信濃、松代、同六年に武蔵の槻にあって、それが江戸時代のしんがりをしている。
明治では五年二月に浜田、二十二年七月に熊本、二十四年十月に濃尾、二十七年六月に東京、同年十月に庄内、二十九年六月に三陸、同年八月に陸羽、三十九年三月に台湾の嘉義、四十二年八月江州に大地震があったが、その内で濃尾の地震には七千余人の死人を出し、三陸の海嘯には二万余の死人を出した。大正になって三年三月に秋田の仙北、それから今回の十二年九月一日の関東の大地震で、それには約十万の犠牲者と約五十万の家屋とを失った。允恭天皇以来平均三年半に一回の大地震に逢うことになっている地震国に、七千万の人間がいて年年人口の過剰に苦しんでいるとは嘘のようである。
底本:「貢太郎見聞録」中公文庫、中央公論社
1982(昭和57)年6月10日発行
底本の親本:「貢太郎見聞録」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
1926(大正15年)12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:多羅尾伴内
2003年8月27日作成
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