らなかった。
「今晩、遅く皆さんが寝静まった時に、花園の中の、あの石のある処へいらして、そこの樹へ索《なわ》を結《ゆわ》えて、その端を牆《へい》の外へ投げてくださるなら、あの方がすがってあがりますよ」
「では鞦韆《ぶらんこ》の索を投げましょうか、あすこに大きな樹があるから、それを結えましょうか、牆からあの樹を伝うなら、わけなくこられるのですよ、でも、あの樹は枯れかかってるからあぶないのですよ」
「いいでしょう、そんなことは、男の方ですから」
 そこで話ができたので老婆は帰ろうとした。秀英はそこへ繍鞋児《くつ》を出してきた。
「これをどうか、あの方に、ね」
 老婆は詩と繍鞋児を袂へ入れ荷物を持って帰ってきた。

 老婆の店に待っていた世高は、両手で拳をこしらえて耐えなければ、気でも違いそうに思われるような喜びに包まれた。彼は一度家へ帰って、夜になるのを待ち、新しい衣服《きもの》に著更えて再び老婆の許へ往った。
 老婆は時刻をはかって世高を裏門口へ伴《つ》れて往った。そこには青白い月の光があった。二人はその光に映しだされないようにと暗い処へ身を片寄せていた。
 微な物音がして索の端が劉家の牆の上から落ちてきた。それは鞦韆の索であった。老婆は無言で世高を促した。
 世高はその索に手をやってちょっと引き嘗《こころ》みてから攀《のぼ》って往った。世高の体はやがて牆の上になったがすぐ見えなくなった。老婆はそれを見ると世高が首尾よく劉家へ入れたと思ったので、裏門を閉めて引込んでしまった。
 世高は牆の上からそこに枝を張っている老樹の枝に移って、そろそろと下の方へおりて往った。おりてゆくうちにその枝が折れてしまった。世高はそのまま下へ墜ちたのであった。
 鞦韆の索を投げて世高の来るのを待っていた秀英は、月の光に世高が牆の上にあがってきて、それから老樹の枝に移ったのを見て喜んだが、喜ぶまもなく世高が墜ちたので、気を顛倒さして走って往った。
 世高は棲雲石《せいうんせき》の上に倒れていた。秀英はそれに手をかけた。
「もし、もし、お怪我をなされたのではありませんか」
 世高は返事もしなければ動きもしなかった。耳を立てても呼吸もしなかった。秀英は慌てて世高の体を彼方此方と撫でたが、体は依然として動かなかった。
 暗い谷底につき落されたようになった秀英の頭に、世高の屍から起る両親の譴責が浮ん
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