がら吠え立てた。
 狼は樹の幹に爪を立てながらあがって来た。ぎろぎろする両眼の光とともに灰白色の動物の頭が見えた。飛脚は隻手《かたて》に檜の小枝を掴み、隻手の刀を打ちおろした。狼は悲鳴をあげて下に落ちた。
 続いて後からまた狼の眼が光りだした。飛脚の刀はまたその頭に触れた。その狼もまた悲鳴をあげて下に落ちた。飛脚が一呼吸《ひといき》つく間もなくつぎの狼がまた頭をだした。その狼も飛脚の刀を浴びて下に落ちた。それでも次の狼は懲りずに上へあがろうとした。
 飛脚はかたっぱしから狼の頭を斬った。下に眼をやると樹の下は狼の眼の光で埋まるように見えた。狼の吠え狂う声が山一面に反響《こだま》をかえした。
 五六十疋ばかりも斬ったところで、何処ともなく怪しい声がしだした。
「佐喜の浜の鍛冶《かぢ》の母を呼うで来い」「佐喜の浜の鍛冶の母……」
 その声が止まると上へ上へあがっていた狼が樹から離れて、その周囲《まわり》を廻りだした。
 飛脚は、狼が上へあがらないようになったので、刀を手にしたなり休んでいた。休みながら「佐喜の浜の鍛冶の母を呼うで来い」と、云った怪しい詞を思いだして、あれはなんのことだろうかと考えてみた。「佐喜の浜の鍛冶の母」彼には何うしても合点が往かなかった。
 狼は樹の周囲《まわり》を廻ることをやめなかった。そして、一|時刻《とき》ばかりもすると、廻っていた狼が樹の幹に執っつきはじめた。その時月は少し傾いて位置を変えたので、一条の光が枝葉の間から落ちて来て飛脚の半身から下を照らしていた。飛脚は狼の血でべとべとになった血刀を持って下の方を覗いていた。
 幹に執《とり》ついていた数多《たくさん》の狼の背を踏みながら、一疋の大きな狼があがって来た。毛色の白く見える肥った狼で、それが大きな口を開けていた。飛脚は刀を揮りかぶって打ちおろした。刀はその額にあたって、狼は大きな音をして下に落ちた。と、幹にとりついていた数多《たくさん》の狼がばらばらと下におりて四方に逃げながら物凄い声で吠えた。
 狼はもうその四辺《あたり》にはいなくなった。飛脚は木の葉に血のりを拭って刀を鞘に収めながら、彼の大狼を切って皆の狼が逃げたところを見ると、あれはこの山の狼の頭であろう……と思っているうちに、ふと、佐喜の浜の鍛冶の母を呼うで来いと云った怪しい詞が浮んで来た。……彼の狼が呼んで来た鍛冶の母かも判らないが、一体鍛冶の母とは何んだろう、鍛冶の母にでも化けている狼のことであろうか、それでは佐喜の浜は野根の磯続きの村であるから、佐喜の浜へ往けば判ることだろうと思った。「佐喜の浜の鍛冶の母」と、云う詞が耳にこびりついて消えなかった。

       二

 朝になって陽が高くなったところで、六七人|伴《づれ》の旅人が野根の方から来たので、飛脚は女と嬰児を頼んでむこうの村にやり、己《じぶん》は一人野根の方へおりて往った。飛脚の刀のために死んだ二十余疋の狼の死体が血に塗れてそのあたりに横たわっていた。
 そして、飛脚は午近くなって野根村へ往ったが、佐喜の浜の鍛冶の母のことが気になっているので、それの詮議をするつもりで、己の定宿にしている宿屋へ往って昼飯を喫い、宿の主翁《ていしゅ》に前夜の話を聞かしたが、鍛冶の母のことは云わなかった。
 飯がすむと飛脚は、宿の主翁にこれから佐喜の浜へ廻る用事があるが、
「佐喜の浜には鍛冶屋があるだろうか」と、云って聞いてみた。
「あります、あります、庄という鍛冶屋があります」と、主翁が云った。
「其処に老人《としより》がいると聞いておるが、達者だろうか」
「老爺《じんま》はもう死んで五六年になるが、老婆《ばんば》はまだぴんぴんしておりますが、その老婆という奴がみょうな奴で、息子の嫁をまぜだしたりして、村でもとおり者でございます」
 飛脚は佐喜の浜の方へ往きながら、いくら根性まがりの老婆でも、人間が狼の仲間入りはしないだろう、……しかしそれにしても佐喜の浜の鍛冶の母を呼うで来いと云ったのは不思議である、もしや、鍛冶の母と云うのは狼の化けている者であるまいかと思った。もし化けているものなら、前夜確に額に斬りつけてあるから、どうかなっておらねばならぬのであった。
 その日海には大きな波のうねりが見えて沖が蒼黒くなっていた。飛脚は海岸を歩いて往った。小さな坂の上で壮《わか》い漁師に逢ったので聞いてみた。
「私は佐喜の浜の鍛冶屋へ、馬の靴を打ってもらいに往きよるが、あすこのお婆さんは達者かな」
「庄鍛冶の老婆《ばんば》か、彼奴は達者すぎて、庄が困っておる」
 と、漁師は笑いながら擦れ違った。
 とにかく額か何処かに怪我があるか無いかを見れば判ると思いながら歩いた。そして、佐喜の浜へ着いて鍛冶屋を聞いて尋ねて往った。
 鍛冶屋の庄吉は仕事場で仕事を
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング