は此処でお産をさせなければならないが、地べたではもし狼に襲われたときに困る、と彼は考えながら四辺《あたり》に眼をやっていると、直ぐ近くに檜があって、それが一丈ばかりの処から数多《たくさん》の枝が出て、その間に二三人の人が坐っても好いようになっているのを見つけた。
 飛脚は其処へ妊婦を置くことに定めて、腰にさしていた刀で、その傍から数多《たくさん》の葛を切って来て檜の樹の上へあがって往き、それを枝から枝に巻きつけて妊婦と己《じぶん》と二人でおられるようにした。そして、妊婦を負ってその上にあげた。
 何時の間にか夜になって林の下は真暗になったが、十日比の月が出て空は明るくなった。
 お産の時刻が迫って来て妊婦は呻き苦しんだ。飛脚は背後《うしろ》から抱きかかえるようにして女に力をつけてやった。飛脚はまた女の背にあった包を解いたり、己の両掛の手荷物を開けたりして、その中から有りたけの着更《きがえ》を出して用意をした。
 暗い中に嬰児《あかご》の泣き声がして女はお産をしたのであった。飛脚は嬰児を抱きあげてそれを衣服《きもの》で包《くる》んだ。嬰児は無心に手の中でぐびぐびと動いていた。
 と、何処からともなく犬の吠えるような声が聞えた。飛脚はふと耳を傾けた。吠えるような声はまた聞えて来た。その声ははじめのような一疋の声ではなかった。それは水に投げた石の波紋が四方に広がって往くように、その声は次第次第に吠え広がって来て、其処にも此処にも聞えだした。それは、狼の声であった。
 飛脚は女の体を直して背を葛に寄せかけ、仰向けに蹲んでいられるようにして、嬰児をその懐に入れ、上から一枚の衣服《きもの》をかけてやった。
 狼の声は近づいて来た。飛脚は手に隙が出来たので腰から煙草入を抜いて、火打をこつこつ打って火を点けながら煙草を喫《の》んでいた。
「あれは、なんでございましょう」と、女が恐ろしそうに聞いた。
「あれが狼じゃ、狼でも私《わし》が控えておるから、大丈夫じゃ、心配せんでも好い」と、飛脚は落ちついて煙草を喫んでいた。
 物凄い狼の声がもう脚下の方に起って、四辺《あたり》が一面に物騒がしくがさがさと鳴りだした。
「来たな」と、飛脚は煙草の吸い殻を下に落して、煙草入をさし刀の目釘をしめして待っていた。
 狼の群は二人のあがっている樹の周囲《まわり》をくるくると廻りはじめた。そして、廻りな
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