燭が、とろとろと燃えていた。
杜陽は紅い霞に包まれているような心地《きもち》になっていた。その杜陽の眼に結婚の祝いにくる数十軒の親類の人達が映ったが、皆金のある身分のある人ばかりのようであった。
杜陽はその親類の中で主人の甥《おい》になるという男とすぐ友達になった。それは封という眼の鋭い背の高い大きな男で、怒りっぽい性質であったが杜陽には優しかった。
「封哥《ほうたい》さんは、怒りっぽい方だから、気をつけてくださいよ、お父様は、あなたを此処の後継者《あととり》になされようとしてますから、親類の者にどうかわるく思われないようにね」
女は時どきこんなことを言って杜陽に注意したが、彼はべつに気にかけなかった。
そのうちに女は妊娠して小供を生んだ。親類の者は集まってきてその生れた小供の祝いをした。杜陽は封生と二人で祝いの席をはずして女の室で酒を飲んでいた。
それは夏のことで酷く暑かった。封生はいきなり諸肌《もろはだ》を脱いで盃を手にした。杜陽にはその不行儀《ぶぎょうぎ》が面白くなかった。
「此処はあれの室じゃないか、たとえいなくっても、あまり無礼じゃないか」
すると封生が怒った。
「生意気なことを言うない、小僧っ子の癖に何を言うんだ、可哀そうな奴だから、此処へ置いて世話をしてやってれば、つけあがって、乃公《おれ》に向って唇を反《そら》すとはなんだ、乃公が黙ってれば、いい気になりやがって」
杜陽も負けてはいなかった。彼はいきなり傍の銅躋《とっこ》を取って封生に向って投げつけたが、それでも怒りが収まらないのでその袖を掴んでびりびりと引き裂いた。と、同時に封生の体は跳りあがって、咆哮《ほうこう》する声が四辺の空気を顫《ふる》わした。杜陽は後ろへひっくりかえった。獣の咆哮するような声がまた起った。
祝いの席にいた親類の者がばらばらと走ってきた。親類の者は猛り狂う封生を総がかりでなだめなだめ外へ伴れて往った。杜陽は起きあがってそれを追って出て往った。
「馬鹿、狂人《きちがい》、汝《きさま》なんぞに負けるものかい、さあ勝負をしよう、おい、逃げるのか、ようやらないのかい」
杜陽のそうした容《さま》を主人は階廊《かいろう》に立って見ていた。其処へ女が心配してきた。
「私はあの男を後継者にしようと思っていたが、もうしかたがない、それにあれをあんなに怒らしたなら、あの男の生命《いのち》がない、残念だが早く逃がすがいい、ぐずぐずしていちゃ大変だ」
女は顔に袖をやって泣きだした。杜陽はこの時思うさま封生を罵ったので、いくらか胸がすっきりして引返してきたところであった。主人はそれを見て言った。
「君は、此処にいちゃ大変だ、もう何と思っても取りかえしがつかない、早く此処を逃げるが宜いだろう」
杜陽は封生と喧嘩した位で自分を去ろうとする主人の心が冷酷に思われた。
「あんな者と喧嘩した位で、私を去ろうとなさるのは、ひどいじゃありませんか、封は実に怪しからん奴ですよ、あれの室で裸になるものですから、私が戒めると私を侮辱するものですから、こんなことになったのです、罪はあの封にあります、もし封が自分の罪をさとらないで、まだ何かするようであったら、私が一人で相手になります、決して皆さんに御迷惑はかけません、どうか私に任しておいてください」
「いや、それは、君がいいことは判っている、判っているが、あの男が一度怒ったなら、この山の者が束になって往っても、どうすることもできない、山を走り巌を飛ぶことは君にはできない、君は封の相手にはならない、もうしかたがない、早く帰るが宜い、帰って家の者を安心さすが宜い、これも天の命ずるところじゃ」
杜陽は女と別れることはできなかった。彼は力なく其処に坐って傍に肩に波を打たせて泣いている女の方を見た。
「ぐずぐずしてちゃ大変だ、お前達二人でお送りするが宜い」
主人の傍には二人の侍女がいた。二人は主人の命を受けると杜陽の傍へひたひたと寄ってきて、左右からその手を取るようにした。杜陽は往くまいと思って力を入れたが、その体は軽々と持ちあげられた。
杜陽は侍女に手を取られたなりに茫然としていた。と、足が地について侍女が手を離した。其処には荒廃した祠《やしろ》が夕闇の底に見えていた。桟道《かけはし》に見覚えのある陳宝祠《ちんほうし》であった。杜陽はびっくりして侍女の方を見た。侍女は二羽の雉《きじ》となって鳴きながら壑の方へ飛んで往った。
杜陽は呆れてそれを見ていた。
杜陽はその晩祠で寝て興安へ帰って往った。杜陽が一年あまりも帰らないので心配していた舅《おじ》は非常に喜んで、杜陽にその事情を聞いた。杜陽は怪しい壑の底の家にいたことをすっかり話した。すると舅が言った。
「それじゃ、あれだ、お前も覚えているだろう、お前が十五の時じゃ、私といっしょに鳳県《ほうけん》の南に往った時、一羽の雉の雌をつかまえて、宿へ着いて食おうと思ってると、お前が可哀そうだと言って、私にかくして逃がしてやったことがあるじゃないか、どうもその雉らしいぞ」
杜陽は封生も何かであろうかと思った。
「じゃ、舅さん、その封生はなんでしょうね」
舅はちょっと考えていたが頷いて言った。
「封生は僕を食った虎だよ、広異記《こういき》に封使君のことがあるじゃないか」
杜陽は後に舅が没《な》くなったのでその事業を引受けてやったが、巨万の富を蓄積することができた。その後杜陽は桟道を通ったことがあったが、自分の墜ちた処へ往くと壑の底へ向って悵望《ちょうぼう》し、陳宝祠へは金を出して重修《しゅうぜん》した。
底本:「中国の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年8月8日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年11月30日発行
※「杜陽はその晩祠で寝て興安へ」の「杜陽は」は底本では「杜陽ら」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年8月3日作成
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