い》の下で佩玉《はいぎょく》を解いて交甫《こうほ》に与えた方ですよ」
 二三箇月して女は舟で送ってくれた。それは帆も楫も用いないで飄然とひとりで往く舟であった。陸へ往ってみるともう人が馬を道ばたに繋いで待っていた。魚はそこで家へ帰った。
 魚はそれからたえず往来した。数年して漢産がますますきれいな子になったので、魚は可愛がった。魚の妻の和氏は、児がないのでいつも漢産を見たがっていた。魚はそれを竹青に告げた。竹青はそこで旅行の準備をして、漢産を魚につけて帰した。それは三箇月という約束であった。
 帰ってくると、和は自分の生んだ子以上に可愛がって、十箇月が過ぎても返さなかった。と、ある日、漢産は急病が起って死んでしまった。和は悲しんで自分も死にかねないほどであった。
 魚はそこで漢水へ往って竹青に知らそうとした。門を入って往くと、漢産は赤足《すあし》のままで榻の上に眠っていた。魚は喜んで女に訊いた。
「漢産は死んだがどうしたのだ」
 竹青は言った。
「あなたが、約束に背いて早く返してくださらないものですから、呼んだのですよ」
 そこで魚は和が児をひどく可愛がることを話した。竹青が言った。
「では、私が今度児を生むのを待っててください、漢産を返しますから」
 一年あまりすると竹青は双児を生んだ。それは男と女の児であった。そして男を漢生《かんせい》とつけ、女を玉佩《ぎょくはい》とつけた。魚は漢産を伴れて家へ帰ったが、一年の中に漢水へ三四回も往くので不便であった。魚はそこで家を漢陽に移した。
 漢産は十二で郡の学校へ入った。竹生[#「竹生」はママ]は人間には美しい質の女がいないからといって、漢産を呼んで妻を迎えさし、そして帰してよこした。漢産の妻になった女の名は扈娘《こじょう》といって、これも神女の産れであった。
 後、和が死んだ。漢生及び妹の玉佩も皆喪の礼を行った。葬儀が畢《おわ》って漢産は留まり、魚は漢生と玉佩を伴れて出て往ったが、それから帰らなかった。



底本:「中国の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年8月8日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年11月30日発行
※「旦那様がお見えになりました」の「旦那」は底本では「旦邦」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年8月3日作成
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