竹青
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)魚容《ぎょよう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「竹生」はママ]
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 魚容《ぎょよう》という秀才があった。湖南の人であったが、この話をした者が忘れていたから郡や村の名は解らない。ただ家が極めて貧乏で、文官試験に落第して帰っている途中で旅費が尽きてしまった。それでも人に物を乞い歩くのは羞かしくてできない。ひもじくなって歩かれないようになったので、暫く休むつもりで呉王廟の中へ入って往った。そこは洞庭のうちになった楚江の富池鎮《ふうちちん》であった。呉王廟は三国時代の呉の甘寧《かんねい》将軍を祀ったもので、水路を守る神とせられていた。廟の傍の林には数百の鴉が棲んでいて、その前を往来する舟を数里の前《さき》まで迎えに往って、舟の上に群がり飛ぶので、舟から肉を投げてやると一いち啄《くちばし》でうけて、下に墜《おと》すようなことはなかった。舟の人はそれを呉王の神鴉《しんあ》といっていた。
 落第して餓えている男は、何を見ても聞いてもしゃくにさわらないものはなかった。魚は呉王の神像の前へ往って不平満々たる詞《ことば》で祈った後で廊下へ往って寝ていた。と、何人《だれ》かが来て魚にこいと言うので随《つ》いて往った。そこは呉王の前であった。魚を伴《つ》れて往った者はひざまずいて言った。
「黒衣隊がまだ一人欠けておりますが、補充いたしましょうか」
「それがよかろう」
 呉王の許しが出たので、その者から魚に衣服《きもの》をくれた。魚は言われるままにそれを着ると、そのまま鴉になった。そこで羽ばたきをして飛んで往くと、たくさんの朋輩の鴉ががあがあと噪《はしゃ》いで飛んでいた。そして、それに随いて往って往来している舟の帆檣《ほばしら》の周囲を飛んだ。すると舟の上にいる旅人が争うて我も我もと肉をなげてくれた。朋輩の鴉はすばしっこくそれを空中でうけた。魚もそれにならってやっていると、またたく間に腹が一ぱいになった。そこで帰って林の杪《こずえ》に止まったが、もう前の不平は忘れて得意であった。
 二三日すると呉王は魚に偶《つれあい》のないのを憐んで、一羽の雌をめあわしてくれた。それは竹青《ちくせい》という名であった。雌雄は互いに愛しあって楽しく暮していた。
 魚は舟の上へ往って食物をあさる時に、馴れてしまって用心しないので、竹青がいつも注意したが聴かなかった。ある日、兵士の乗った舟が通った。兵士は肉のかわりに銃弾を飛ばした。銃弾は魚の胸にあたった。魚が落ちようとすると竹青が銜《くわ》えて往ったので、兵士につかまらずにすんだ。鴉の群は朋輩を撃たれて怒り、羽ばたきをして波をあおったので、大きな波が湧き起って兵士を乗せた舟は覆ってしまった。
 竹青は魚を林の中へ伴れて往って、餌をあさってきて食わそうとしたが、魚は傷がひどかったのでその日の中に死んでしまった。と、夢のように目が醒めてしまった。魚は呉王廟の廊下に寝ている自分を見出したのであった。
 はじめ土地の人は呉王廟の廊下に死んだようになっている魚を見つけたが、どうしたものか解ろうはずがない。体へ手をあててみるとまだ冷えきっていないので、時どき人を見せによこした。ところで、この時になって魚が蘇生したので、すべての事情が解った。村の人は金を出しあって旅費を作ってくれたので、魚は無事に故郷へ帰ることができた。
 後三年して魚はまた旅に出たが、途ついでに呉王廟へ参詣して、食物を供え、鴉を呼びあつめて食べさした。そして、
「この中に竹青がもしいるなら、残っておいで」
 と言って祈ったが、鴉は食べてしまうと飛んで往って一羽も残らなかった。
 魚は後に官吏になって帰ってきたが、また呉王廟に参詣して、羊と豚を供え、一方にたくさんの食物をかまえて、鴉の友達に御馳走をした。そしてまた竹青のことを言って祈ったが、その日も残る鴉はいなかった。
 魚はその晩舟を湖村に繋いで燭《ひ》の側《そば》に坐っていた。と、鳥のようにひらりと入ってきて几《つくえ》の前に立ったものがあった。みると二十《はたち》ばかりの麗人であった。にっと笑って、
「お別れをしてから、御無事でしたか」
 と言った。魚はめんくらって訊いた。
「あなたは、何人ですか」
「あなた、竹青をお忘れになって」
 魚は喜んだ。
「何所《どこ》から来たかね」
「私は、今、漢江の神女となっていますから、故郷《うち》へ帰ることはすくないのですが、鴉の使いが二度も来て、あなたの御心切を知らしてくれましたから、お眼にかかりに来たのです」
 魚はますます喜んだ。ちょうど久しく別れていた夫妻のように懽恋《かんれん》にたえなかった。そこで魚は竹青を自分の故郷へ伴れて往こうとした。

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