んだ晩であった。王は女といっしょに庭前を歩いていた。王はその時ふと思いだして聞いてみた。
「あの世にも城や家があるだろうか」
「ありますとも、立派なお城も屋敷もございます」
「それは此処から遠いだろうか」
「なに、此処から僅かに三四里でございます、だがこの世とは、夜と昼とが違っております」
「私にも見えるだろうか」
「見えますとも」
「見えるなら見たいものだな」
「では、まいりましょう、いらっしゃい」
女はもう月の下を風に吹かれる雲のようにひらひらと歩いて往った。王もその後から随《つ》いて往ったが、女の足が馬鹿に早いので追っつけなかった。そして、やっと女に追いついたかと思うと女は立ち止まった。
「もうまいりましたよ」
王は眼を開けて前《むこう》の方を見たが何も見えなかった。
「私の眼には、何も見えない」
「見えるようにしてあげましょう」
女の小さな指が両方の瞼にきたかとおもうと眼がはっきりとした。王は眼が覚めたような気で前の方を見た。其処は広い街の上で、左右には塀が並んでいた。たくさんの人がその街の上を往ったり来たりするのも見えた。王はあの世もこの世も別に変ったことはないとおもいながら見ていると、二人の小役人が二三人の囚人に縄をかけて前の方からきた。その囚人は皆首に縄をつけてあった。一行は二人の傍を通り越そうとした。その拍子に王が眼をやると、一番後をあるいている囚人の容貌がどうも兄の鼎に似ているので、不思議に思って追っ駈けるようにしてその傍へ往った。
「兄さんじゃありませんか」
すると、囚人の顔が此方を見返った。それは確かに兄の鼎であった。
「おお、お前か」
王は狂人のようになって言った。
「兄さんは何故こんなことになったのです」
兄の眼からは涙が零《こぼ》れた。
「何のことだかさっぱり判らない、不意にこうして縛られてきたのだ」
王は小役人の前へ走って往った。
「私の兄は、江北の名士で君子です、どんなことがあったか知らないが、兄は悪いことをする者じゃないのです、待ってください」
小役人は王を叱りつけた。
「ならん、その方達の知ったことじゃない、どけ」
王は小役人の前へ立ち塞がるようにした。
「待て、待て、わしがこうして連れて往かれるのは、官の命だ、この者達の知ったことじゃない、しかし、わしは、今、金がない、金があれば赦《ゆる》してもらうこともできるだろう、お前は国へ帰って金の心配をしてくれ」
王は兄の傍へ寄って往って兄の肘《ひじ》に手をかけて泣いた。小役人は怒って鼎を縛っている縄を引っぱった。鼎はよろよろとして倒れた。
王はそれを見ると火のようになって怒った。彼は腰の刀を抜いて、いきなり一人の小役人の首を斬った。一方の小役人はそれを見て叫びながら逃げようとした。王はまたその小役人も斬り殺してしまった。
王といっしょにきていた女がこの時傍へ来た。
「役人を殺しては大変です、早く舟を雇うて逃げてください、逃げたうえで、七日の間、門を閉じて出入りしないようにするなら、きっとこの禍を脱《のが》れることができます」
王は兄の縄を解くとともに、女をそのままにしてすぐ小船を雇うて北へ帰った。そして、家へ帰ってみると、門口には喪の旗が出ていて弔客《ちょうかく》が溢れていた。
王ははじめて兄が死んであの世へ連れて往かれていたということを知った。彼は女の言ったように門を閉じて、家の中へ入ってみると、いっしょに帰っていた兄の姿が見えなかった。
そのうちに死人の枕頭に詰めて死人の番をしていた家内の者は、呼吸《いき》をふきかえした死人を見て驚いた。
「ひもじい、ひもじい、何か食う物を持ってこい」
鼎は死んでから二日目に蘇生したのであった。其処へ王が入ってきた。王はあの世から兄の魂を連れて戻ってきた話をした。
七日目になると王の家では門を開けて喪の旗を除いた。人々は鼎が蘇生したことを知って、驚き喜んで集まってきた。
王は家にいたが秋月に逢いたくなったので、また船を雇うて南へくだり、かの鎮江の旅館へ往った。そして自分の借りた室へ入って、日が暮れると灯を明るくして女のくるのを待っていた。
暫く待っても女はこなかった。王は諦めてもう寝ようと思ったが、体を動かすのも億劫であるから、そのままぐったりとして腰をかけていた。その王の朦朧とした眼の前へ女の姿が見えた。王は秋月ではないかと思って声をかけようとしたが、それは秋月とは違った年老《としと》った女であった。王は黙ってその女を見つめた。
「私は秋月さんのお使いでまいりました、あなたが役人を殺してお逃げになったものですから、秋月さんが捕えられて、監禁せられておりますが、番人が毎日秋月さんをいじめて困っております」
王は女の言葉を聞いてもうじっとしていられなかった。
「教えてくだ
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