も判らないぞ、と、彼は横眼を使いながら女の方に注意していた。壮《わか》いおどおどした女にも以合わず、荊棘の上も、萱の中もかまわず、ひらひらと歩いて来た。さては、と、彼は思った。
女は白いあどけない顔に微笑を見せながら寄って来た。若侍も微笑を見せて女の来るのを待っていた。
女の艶かしい顔が眼の前にあった。若侍は抜く手も見せず、腰の刀を抜いて斬りつけた。女は声を立てずに倒れたが、それはまぎれもない女の死骸であった。若侍は周章《あわ》てだした。狸ではなしに人であったら、恐れに眼が暗んで人と狸とまちがえたと云って世間から笑われる、もしそうであったら、とても生きてはいられない、と、彼は女の死骸を見つめていた。
三人|伴《づれ》の侍女《こしもと》らしい女が走って来た。若侍は当惑した。侍女らしい女は若侍の傍へ来た。
「もしや此処を、お姫様がお通りになりはしまいか」
と、一人が云った。若侍はさては己《じぶん》の殺したのはお姫様であったか、しまったことをしたと思って、全身の血が一時に氷結したように思った。
「や、これは、お姫様、何者がこんな姿に……」
と、一人の侍女は倒れるように死骸に執り縋った。他の侍女も泣き叫んで死骸に執り縋った。
若侍は茫然として立っていた。侍女の一人は若侍の血刀を持った手をぐっと掴んだ。
「この悪人、そちは何の怨みあって、お姫様をこうした眼に逢わせたのじゃ」
若侍は血刀を手から落した。と、跫音がして山狩姿をした武士が、五六人の侍者を従えて来た。
「や、殿様のおでましじゃ」
若侍の隻手を掴んでいた侍女の一人が云った。山狩姿の武士は侍女の声を聞きつけると、その方へ寄って来た。それは国主であった。
「何事じゃ」と、国主は声をかけた。
「この者が、お姫様を手にかけましてござります」
「なに、姫を手にかけた」
と、云って死骸を見るなり、その眼を怒らした。若侍は腰を抜かしたように坐って、顔を土にすりつけた。
「にくい奴、何故あって姫を手にかけた」
「恐れ入りました」
「何故あって姫を手にかけたのじゃ、早く云え」
と、国主は涙声になっている。
「諸人の害をなす狸を退治いたそうと思いまして」
「たわけ者、狸と姫と区別ができないか、武士の風上にも置けない奴、せいばいして姫の仇を執ってやる」
国主は徒者の一人に持たしてある刀を執って、それをすらりと抜いた。若侍はせめて殿様の手討にでもなれば、その罪がつぐなえると思って、腹を据えてしまった。
「暫く、暫く、暫く、暫く」
と、云う声がする。何人《なんびと》か手討を止める容子である。
「殿、如何なる大罪を犯したかは存じませんが、愚僧に免じて、どうか生命だけは……」
と、云うのは国主の信仰の厚い僧正であるらしい。
「姫を手にかけたる大罪人なれば、赦すまじき奴なれども、貴僧に免じて許しつかわす」
「そはありがたきしあわせにぞんじます、然らば、この者は今日より、愚僧の法弟といたして、姫の後世を弔わせます」
僧は若侍の傍へ寄って来た。
「我が君のありがたきお情けによって、一命は愚僧が貰いうけた、今日から出家して、愚僧の法弟になるが好い」
と云った。若侍は生命は既にないものと思っていたところであるから、非常に喜んだ。彼は隻手に小刀を抜き、隻手に髻《もとどり》を掴んで、ぶつりと根元から切ってしまった。
若侍は通りかかった村の人に声をかけられて驚いた。彼は山の中の草の上に坐って、頭髪を切り、それを傍に置いて合掌していた。
底本:「日本の怪談」河出文庫、河出書房新社
1985(昭和60)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:地田尚
2000年5月30日公開
青空文庫作成ファイル:
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