織成
蒲松齢
田中貢太郎訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)洞庭湖《どうていこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|崔《さい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)者[#「者」は底本では「音」]
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洞庭湖《どうていこ》の中には時とすると水神があらわれて、舟を借りて遊ぶことがあった。それは空船《あきぶね》でもあると纜《ともづな》がみるみるうちにひとりでに解けて、飄然《ひょうぜん》として遊びにゆくのであった。その時には空中に音楽の音が聞えた。船頭達は舟の片隅にうずくまって、目をつむって聴くだけで、決して仰向《あおむ》いて見るようなことをしなかった。そして、舟をゆくままに任《まか》しておくと、いつの間にか遊びが畢《おわ》って、舟は元の処に帰って船がかりをするのであった。
柳《りゅう》という秀才があって試験に落第しての帰途、舟で洞庭湖まで来たが酒に酔ったのでそのまま舟の上に寝ていた。と、笙《ふえ》の音が聞えて来た。船頭は水神があらわれたと思ったので、柳を揺り起そうとしたが起きなかった。船頭はしかたなしに柳をそのままにして舟の底へかくれた。
と、人が来て柳の頸筋《くびすじ》をつかんで曳《ひ》き立てようとした。柳はひどく酔っているので持ちあがらなかった。そこで手を放すとそのまままたぐったりとなって眠ってしまった。しばらくしてその柳の耳に鼓《つづみ》や笙の音が聞えて来た。柳はすこし眼が醒めかけたのであった。蘭麝《らんじゃ》の香が四辺《あたり》に漂っているのも感じられた。柳はそっと窺《のぞ》いてみた。舟の中は綺麗な女ばかりで埋まっていた。柳は心のうちでただごとでないことを知った。柳は目をつむったように見せかけていた。しばらくして、
「織成《しょくせい》、織成。」
と口移しにいう声がした。すると一人の侍女が来て、柳の頬《ほお》の近くに立った。それは翠《みどり》の襪《くつたび》に紫の色絹を着て、細い指のような履《くつ》を穿《は》いていた。柳はひどく気に入ったので、そっと口を持っていってその襪を齧《か》んだ。しばらくして女は他の方にいこうとした。柳が襪を齧んでいたためによろよろとして倒れた。一段高い所に坐っている者がその理由《わけ》を訊《き》いた。
「その方は、何故に倒れたのか。」
女はその理由を話した。
「ここにいる人間が私の襪を齧んだためでございます。」
高い所にいた者[#「者」は底本では「音」]はひどく怒った。
「その者に誅《ばつ》を加えるがよかろう。」
武士が来て柳をつかまえ曳《ひ》き立てていこうとした。高い所には冠服をした王者が南に面して坐っていた。柳は曳き立てられながらいった。
「洞庭の神様は、柳姓でありますが、私もまた柳姓であります。昔、洞庭の神様は落第しましたが、私も今落第しております。しかるに洞庭の神様は、竜女に遇って神仙になられ、今私は酔って一人の女に戯れたがために死ぬるとは、何という幸不幸の懸隔のあることでしょう。」
王者は、それを聞くと柳を呼びかえして問うた。
「その方は下第《かだい》の秀才か。」
柳はうなずいた。そこで王者は柳に筆と紙をわたして、
「風鬟霧鬢《ふうかんむひん》の賦を作ってみよ。」
といった。柳は嚢陽《じょうよう》の名士であったが、文章を構想することは遅かった。筆を持ってやや久しく考えたができなかった。王者はそれをせめた。
「名士、どうして遅い。」
柳は筆を置いていった。
「昔、晋《しん》の左思《さし》が作った三都《さんと》の賦は十年してできあがりました。文章は巧みなのを貴《とうと》んで、速いのを貴びません。」
王者は笑って聴いていた。辰《たつ》の刻から午《うま》の刻になって始めて脱稿《だっこう》した。王者はそれを見て非常に悦んだ。
「これでこそ真の名士である。」
そこで柳は酒を下賜せられた。時を移さず珍奇な肴が前に列べられた。王者が柳に何かいおうとしている時、一人の使が帳簿を持って来て捧《ささ》げた。
「溺死者の名簿ができました。」
王者は問うた。
「幾人ある。」
「一百二十八人あります。」
「だれを差遣《さけん》するのか。」
「毛《もう》将軍と南《なん》将軍の二人でございます。」
柳はその前を退こうとした。王者は黄金十斤と、水晶の界方《かいほう》をくれた。界方とは直線を引くに用いる定規で、それで文鎮《ぶんちん》をかねるものであった。王者はいった。
「湖の中で災厄に逢っても、これを持っているなら、免がれることができる。」
ふと見ると羽葆《はねがさ》をさしかけた人馬の行列が水面にあらわれた。王者は舟からおりてその輿《くるま》に乗ったが、そのまま見えなくなってしまった。舟の中一ぱいにいた女達
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