箱に手をやつた。と、今まで気が注かなかつた天井から垂れてゐる青いワナになつた紐がちらと眼に注くとゝもに、それがふはりと首に纏はつた。彼は左の手でそれを払のけやうとしたところで、凭れかゝつて来た女の体に石のやうな力が加はつて、彼の体を崩してしまつた。彼は唸り声を立てた。

 哲郎が意識を回復した時には、薄暗い枕頭に二人の男が立つてゐた。
「お前さんは何んだね、此処へ何しに来たんだね、」
 哲郎は女に連れられて下の人に知らさずにそつと来てゐることに気が注いた。彼はかうなれば女に弁解して貰ふより他に手段がないと思つた。彼は起きて四辺を見たが女の姿は見えなかつた。
「此処にゐる女の方と一緒に来たんですが、何処へ往つたんでせうか、」
「此処にゐるつて、此処には何人もゐないが、何人にも貸してないから、」
「おかしいな、私は其処の蕎麦屋の前で一緒になつて、やつて来て、棚に酒があるといつて、女が取らうとしたが棚が高くて取れないから、私が取つてやらうとすると、女が凭れかゝつて来る拍子に、其処の天井からさがつてる青い紐が首へかゝつて、それつきり知らなくなつたんですが、」
 哲郎は棚の方を見た。紐もなければ古い煤けた棚には何も見えなかつた。
「判つた、よし、好い、まア、下へお出で、お前さんに話がある、」
 それは頬から頤にかけて胡麻塩髯の見える労働者のやうな男であつた。哲郎は意味が判らなかつたが、腑に落ちないことだらけであるから、とにかく精しいことを聞かうと思つて、傍にあるインバを持ち、先になつておりて往く二人の後から随いて往つた。
 胡麻塩の男は其処の亭主で、一人は隣家の男であつた。亭主は火のない長火鉢の傍で小さな声でいつた。
「五六年前に、バーの女給をしてゐた女が、なんでも男のことかなんかで、あすこで死んださうですよ、私達は一昨年移つて来て何も見ないが、へんなことがあるといつて、貸す人も貸す人も三月とはゐないんですよ。」



底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
   2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
   1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
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