女でないと思つた。
向ふから鳥打を冠りインバを着た男がやつて来た。哲郎はこの男は刑事かなにかではないかと思つた。彼はさうして今女に話しかけやうとしたことを思ひ出して、もしあんな時に追つかけでもしてゐやうものなら、ひどい目に逢はされたかも判らないと思つた。彼はすこし気が咎めたが、しかし向ふの方に幸福が待つてゐるやうな気がするので、引つかへさうとする気もしなければ、其処のカフエーへ入らうとする気も起らなかつた。
夜店の後の街路には蜜柑の皮やバナナの皮が散らばつてゐた。哲郎は其処を歩きながら今の女は何処へ往つたらうと思つて、向ふの方を見た。向ふには薄暗い闇があるばかりで人影は見えなかつた。彼は女は何処かこのあたりの者であらうと思つた。
哲郎は戸の閉つた薔麦屋の[#「薔麦屋の」はママ]前へ来てゐた。微に優しい声で笑ふのが聞えた。彼はその方へと顔をやつた。若い女が電柱に身を隠すやうにして笑つてゐた。それは長い襟巻で口元を覆ふやうにした彼の女であつた。
「あ、」
哲郎はもう何も考へる必要はなかつた。彼は女の傍へと往つた。
「私は電車に乗つて帰るのが惜いやうな気がするもんだから、かうしてぶらぶらと歩いてるんです、どうです、一緒に散歩しませんか、すこし遅いことは遅いが、」
女は電柱を離れて寄つて来た。黒い眼と地蔵眉になつた眉とがきれいであつた。
「あなたは、どちらです、遠いんですか、」
「近いんですよ、」
「どうです、散歩しませんか、どつか暖い物をたべる家でも好いんですが、」
「さうね、でも、もう遅いから、私の家へまゐりませう、」
「往つても好い、構はないんですか、」
「私、一人ですから好いんですよ、」
「下宿でもしてゐるんですか、」
「間借をしてゐるんですよ、二階の、屋根裏の穢い所よ、」
「結構ですな、」
もう女は歩きだした。哲郎は何かたべ物でも買つて往きたいと思ひだしたが、さて何を買つて好いやら、この夜更けに何があるものやらちよと思ひだせなかつた。
「何か買つて往きませうか、たべる物でも、」
女は顔を此方に向けた。
「もう何も売つてやしませんわ、好いでせう、家へ往きや何かつまらん物がありますから、」
「さうですか、」
哲郎は怪しい女の生活を思ひ出してキユーラソー位はあるだらうと思つた。彼はもう何もいはずに女に随いて歩いた。
女は其処の横町を左へ曲つた。向ふから
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング