腹がごろごろ鳴ってひもじくてこらえられなかった。
 そこで二人は人家のある方へ往こうと思って、急いで山を越えて往った。山の半《なか》ばまで往ったところで、矢の音がした。陳は足を止めて耳をすました。と、馬の跫音がして二人の女郎《むすめ》が駿馬に乗って駈けてきた。二人とも紅い※[#「糸+悄のつくり」、第3水準1−90−6]《しょう》の鉢巻をして、髻《もとどり》に雉《きじ》の尾を挿し、紫の小袖を着、腰に緑の錦を束ね、一方の手に弾《はじきゆみ》を持ち、一方の手に青い臂《ひじ》かけをしていた。その二人が嶺の南を駈けて往くと、二三十騎の者が後から続いた。林の中に猟をしていた一行であろう、皆美しい女ばかりで装束もおんなじであった。
 陳は大事をとって動かなかった。騎馬の後から男の駈けてくるのが見えた。それは馭卒《ぎょそつ》のようであった。陳はその馭卒の方へ往って、
「今、通ったのは何方《どなた》です」
と訊いてみた。馭卒は言った。
「あれは西湖の王様じゃ、首山《しゅざん》に猟をなされておるところじゃ」
 陳は自分がそこへ来た故《わけ》を知らして、そのうえ飢えていることを話した。馭卒は裏糧《べんとう》を解いて食物を分けてくれて、そして注意した。
「遠くの方へさけなくちゃいけない、車駕《しゃが》を犯すと死刑になるからな」
 陳は懼《おそ》れて従僕を伴れて山を走りおりた。山の麓の林の中に宮殿のような建物がちらと見えた。陳は寺だと思ったので、その方へ歩いて往った。周囲に白亜の垣をめぐらした建物で、渓《たに》の水が流れ、朱塗の門が半ば啓《あ》いて、それには石橋が通じていた。門の扉にのぼって中を窺いた。それは大小の建物が雲に聳えて王宮の庭のようであった。陳はそこでまたこれは貴族の庭ではなかろうかと思った。
 陳はためらいためらい入って往った。花の咲いた藤が一面に這うて、花の香がむっと匂うてきた。曲欄《きょくらん》を幾まがりか折れて往くとまた別の庭があって、枝を垂れた数十株の楊柳が高だかと朱の簷《のき》を撫でていた。そして名も知れぬ山鳥が一鳴きすると花片《はなびら》が一斉に散った。奥深い花苑には微かに風が渡って、楡《にれ》の実がひとりでに落ちた。それは目を悦《よろこ》ばし心を愉快にするところで、どうしても人間の世にある庭ではなかった。
 陳はその庭を通って小さな亭《ちん》の傍《そば》へ往った。
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