、」
女中が出て行くと省三は手紙の文字に眼をやつた。それはその日公会堂に来て彼の講演を聞いた身分のあるらしい女からであつた。彼はその手紙を持つたなりに女の身分を想像しはじめた。彼の心はすつかり明くなつてゐた。
三
省三は好奇心から八時十分前になると宿を出て運河が湖水に入つてゐる土手の上へと出かけて行つた。其所には桃色の封筒の手紙をよこした女がゐることになつてゐた。
宵に一時間ばかり闇をこしらへて出た赤い月があつた。それは風のない春のやうな夜であつた。二人連の労働者のやうな酔つぱらひをやり過して、歩かうとして右側を見ると赤いにじんだやうな行燈が眼についた。それは昔泊つたことのある旅館の行燈であつた。しかし彼はその行燈に対して何の感情も持たなかつた。
彼は甘い霞に包まれてゐるやうな気持になつてゐた。路の右側にある小料理屋から三味線が鳴つてその音と[#「その音と」は底本では「その昔と」]一緒に女の声も交つて二三人の怒鳴るやうな歌が聞えてゐたが彼の耳には余程遠くの方で唄つてゐる歌のやうにしか思へなかつた。
微白いぼうとした湖の水が見えて右側に並んでゐた人家がな
前へ
次へ
全37ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング