とを云ふと女は喜んだ。
(私も、今日舟をあがる時に、さう思ひました、小舟で蘆の中を通つてみたら、どんなに好いか判らないと思ひました、どうかお邪魔でなければ、御一緒にお願ひ致します、)
(ぢや、一緒にしませう、蘆の中は面白いでせう、)
彼は翌日宵の計画通り女と一緒に小舟に乗つて湖縁を××へまで行つて其所から汽車に乗つて東京へ帰つた。女は日本橋檜物町の素人屋の二階を借りて棲んでゐる金貸しをしてゐる者の娘で神田の実業学校に通うてゐた。女はそれ以来金曜日とか土曜日とかのちよつとした時間を利用して遊びに来はじめた。
彼はその時赤城下へ家を借りて婆やを置いて我儘な生活をしてゐた。そして放縦な仲間の者から誘はれると下町あたりの入口の暗い二階の明い怪しい家に行つて時々家をあけることも珍しくなかつた。
ある時その時も大川に近い怪しい家に一泊して苦しいさうして浮々した心で家へ帰つて来て、横に寝そべつて新聞を読んでゐると女の声が玄関でした。婆やは用足しに出掛けたばかりで取次ぎする者がないので自分に出て行かねばならないが、その声は聞き慣れた彼の女の声であるから体を動かさずに、
(おあがりなさい、婆やがゐないんです、遠慮はいらないからおあがりなさい、)
と云つて首をあげて待つてゐると女が静に入つて来た。
(昨夜、友達の家で碁がはじまつて、朝まで打ち続けてやつと帰つたところです、文学者なんて云ふ奴は、皆馬鹿者の揃ひですからね……其所に蒲団がある、取つて敷いてください、)
女はくつろぎのある綺麗な顔をしてゐた。
(有難うございます、……先生にお枕を取りませうか、)
彼は昨夜の女に対した感情を彼の女にも感じた。
(さうですね、取つて貰はうか。後の押入れにあるから取つてください、)
女は起つて行つて後の押入れを開け白い切れをかけた天鵞絨の枕を持つて来て彼の枕元に蹲んだ彼は其殺那焔のやうに輝いてゐる女の眼を見た。彼はその日の昼頃、帰つて行く女を坂の下の電車の停留場まで見送つて行つた。そして翌翌日の午後来ると云つた女の言葉を信用してその日は学校に行つたが、平常の習慣となつてゐる学校の食堂で昼飯を喫ふことをよして急いで帰つて来た。
しかし女は夜になつても来なかつた。何か都合があつて来られないやうになつたのだつたら手紙でもよこすだらうと思つて、手紙の来るのを待つてゐたが朝の郵便物が来ても手紙は来なかつた、彼は手紙の来ないのはすぐ今日にでも来るつもりだから、それでよこさないのだらうと思ひ出して散歩にも出ずに朝から待つてゐたが、その日もたうとう来もしなければ手紙もよこさなかつた。
彼はそれでも手紙の来ないのはすぐ来られる機会が女の前に見えてゐるからであらうと思つてその翌日も待つてみたが、その日もたうとう本人も来なければ手紙も来なかつた。彼は待ち疲れて女の行つてゐる学校の傍を二時頃から三時頃にかけて暑い陽の中を歩いてみたが、その学校から沢山の女が出て来ても彼の女の姿は見えなかつた。
彼はまた檜物町の女の棲んでゐると云ふ家の前を彼方此方してみたがそれでも女の姿を見ることは出来なかつた。しかし隣へ行つて女の様子を聞く勇気はなかつた。
その内に一箇月あまりの日がたつてからもう諦めてゐた彼の女の手紙が築地の病院から来た。それは怖しい手紙であつた。女は彼の翌日から急に発熱して激烈な関節炎を起し左の膝が曲つてしまつたゝめに入院して治療をしたが、熱は取れたけれども関節の曲りは依然として癒らないから一両日の内に退院して故郷の前橋へ帰つた上で何所かの温泉へ行つて気長く養生することになつてゐる明日は午後は父も来ないからちよつと逢ひに来てくれまいかと云ふ意味を鉛筆で走り書きしたものであつた。
彼は鉄鎚で頭を一つガンとなぐられたやうな気持でその手紙を握つてゐた。彼は一時のいたづら心から処女の一生を犠牲にしたと云ふ慚愧と悔恨とに閉されてゐたが心の弱い彼はたうとう女の所へ行けなかつた。
女からはすぐまたどうしても一度お眼にかゝりたいから[#「かゝりたいから」は底本では「かゝかりたいから」]、都合をつけて来てくれと云ふ嘆願の手紙が来たがそれでも彼は行けなかつた。行けずに彼は悶え苦しんでゐた。女から明日の晩の汽車でいよ/\出発することになつたから父親がゐても好いから屹と来てくれと云つて来た。そして汽車の時間まで書いて病院まで来てくれることが出来ないならせめて停車場へなり来てくれと書き添へてあつた。
心の弱い彼はその望みも達してやることが出来なかつた。そして二三日して汽車の中で書いたらしい葉書が来た。それには、(先生さやうなら、永久にお暇乞ひを致します、)と書いてあつた。
それから二日ばかりしての新聞に前橋行きの汽車の進行中乗客の女が轢死したと云ふ記事があつた。…………
「先生
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