はピンを刺されたまま崩れるやうに室の外へ出て行つた。
 省三は夢現の境に女の声を聞いてふと眼を開けた。それと一緒に女が後ろから著せた羽織がふはりと落ちて来た。

 省三は女に送られてボートで帰つてゐた。それは曇つた日の夕方のことで鼠色に暮れかけた湖の上は蝸牛の這つた跡のやうにところどころ気味悪く光つてゐた。
 省三は女の家に二三日ゐて帰るところであつた。彼は艫に腰を懸けて女と無言の微笑を交はしてゐたがふと眼を舟の左側の水の上にやると一尾の大きな鯰が白い腹をかへして死んでゐた。
「大きな鯰が死んでゐますね、」
 省三はその鯰をくはしく見るつもりでまた眼をやつた。黒いピンのやうなものが咽喉元に松葉刺しにたつてゐた。
「咽喉をなにかで突かれているんですね、」
「いたづらをして突かれたもんでせう。それよりか、次の金曜日にはきつとですよ、」
「好いんです、」

          五

 すこし風があつて青葉がアーク燈の面を撫でてゐる宵の口であつた。上野の山を黙々として歩いてゐた省三は、不忍の弁天と向き合つた石段をおり、ちやうど動坂の方へ行かうとする電車の行き過ぎるのを待つて、電車路をのつそりと横切り弁天の方へと行きかけた。其処には薄つすらした靄がかかつて池の周囲の灯の光を奥深く見せてゐた。
 彼は山の上で一時間も考へたことをまた後に戻して考へてゐた。……かうなれば世間的の体裁などを云つてゐられない断然別居しよう、子供には可哀さうだが仕方がないそして別居を承知しないと云ふならひと思ひに離別しよう、子供はもう三歳になつてゐるからしつかりした婆やを雇へば好い今晩先づ別居の宣言をしてみよう、気の弱いことではいけないどうも俺は気が弱いからそれがためにこれまで何かの点に於て損をしてゐる。断然とやらう来る日も来る日も無智な言葉を聞いたり厭な顔を見せられたりするのは厭だ……。
 彼はその夕方細君といがみ合つたことを思ひ浮べてみた。先月のはじめ水郷の町の講演に行つて以来長くて一週間早くて四五日するとぶらりと家を出て行つた。そのつど二三日は帰つて来ない彼に対して敵意を挟んで来てゐる細君は隣の手前などはかまはなかつた。
 ……(さんざんしやぶつてしまつたから、もう用はなくなつたんでせう、)
 ……(私のやうな者は、もう死んでしまや好いんでせう、生きてて邪魔をしちや、どつさりお金を持つて来る女が来ないから、)
 細君は三千円ばかりの父親の遺産を持つて来てゐた。……
 その日は神田の出版書肆から出版することになつた評論集の原稿を纒めるつもりで、机の傍へ雑誌や新聞の摘み切りを出して朱筆を入れてゐると、男の子がちよこちよこと這入つて来てその原稿を引つ掻きまはすので、
(おい、坊やをどうかしてくれなくちや困るぢやないか、)
 と云ふと、
(坊やお出でよ、そのお父様は、もう家のお父様ぢやないから駄目よ、)
 と云つて細君が冷たい眼をして這入つて来た。
(馬鹿、)
(どうせ、私は馬鹿ですよ、馬鹿だから、こんな目に逢ふんですよ、坊や、お出で、)
 細君はまだ雑誌の摘み切りを手にして弄つてゐる子供の傍へ行つてその摘み切りを引つたくつてをいていきなり抱きかかへた。その荒々しい毒々しい行ひが彼の神経を尖らしてしまつた。彼は朱筆を持つたなりに細君の後から飛びかかつて行つて両手でその首筋を掴んで引き据ゑた。細君は機を喰つて突き坐つた。と、子供がびつくりして大声に泣き出した。
(馬鹿、なんと云ふ云ひ方だ、)
 彼は細君の頭の上を睨み詰めるやうにして立つてゐた。
 細君の泣き声がやがて聞えて来た。
(何と云ふ馬鹿だ、身分を考へないのか、)……
 彼は楼門の下を歩いてゐた。白い浴衣を着た散歩の人がちらちらと眼に映つた。
 ……この先、こんな日がもう一箇月も続かうものなら頭は滅茶滅茶になつて何も出来なくなる出来なくなればますます生活が苦しくなる。この上生活に追はれては立ちも這ひも出来ないことになる、どうしても別居だ別居して静に筆をとる一方で、自分の哲学を完成しようそしてその間に時間をこしらへて彼の女と逢はう……
 彼は弁天堂の横から吐月橋の袂へと行つた。其所は弁天堂の正面と違つて人通りがすくなく世界が違つたやうにしんとしてゐた。彼は暗い中を見た。
「先生ぢやありませんか、」
 と、聞き覚えのある女の声がした。省三は足を止めて後の方を振り返つた。白い顔が眼の前に来た。それは水郷の町の女であつた。
「何時いらしつたんです、」
「今の汽車で参りました。ちやうど好かつたんですね、」
「何所へいらしつたんです、」
「銚子の方へ行かうと思つて、家を出たんですが、先生にお眼にかかりたくなりましたから参りました。これからお宅へあがらうと思ひまして、ぶらぶらと歩いて参りましたが、なんだか変ですから、ちよつと
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