ないと思つた。
「あなたが先へお乗りなさい、私が漕ぎませう、」
「いゝえ、このボートは、他の方では駄目ですから、私が漕ぎます、どうかお乗りくださいまし、」
省三は女の云ふ通りにして駒下駄を脱いでそれを右の手に持ちやつとこさと乗つたが、乗りながら舟が揺れるだらうと思つて用心して体の平均を取つたが舟は案外動かなかつた。
続いて女が胴の間に乗り移つた。その拍子に女の体にしめた香水の香が省三の魂をこそぐるやうに匂ふた。省三は艫へ腰をおろしたところであつた。
女の左右の手に持つた二本の櫂がちら/\と動いてボートは鉛色の水の上を滑りだした。月の光の工合であらうか舟の周囲は強い電燈を点けたやうに明るくなつて女の縦模様のついた錦紗のやうな派手な羽織が薄い紫の焔となつて見えた。
「私が代りませうか、女の方よりもすこし力がありますよ、」
省三は眩しいやうな女の白い顔を見て云つた。女はそれを艶やかな笑顔で受けた。
「いえ、私はこのボートで、毎日お転婆してますから、楊枝を使ふほどにも思ひませんわ、」
「さうですか、では、見てをりませうか、」
「四辺の景色を御覧くださいましよ、湖の上は何時見ても好いものでございますよ、」
女は左の方へちよつと眼をやつた。省三も女の顔をやつた方へ眼をやらうとしてすぐ傍の水の上に眼を落してから驚いた。この周囲の水の上は真黒な魚の頭で埋まつて見えた。それは公園や社寺の池に麩を投げた時に集つて来る鯉の趣に似てゐるがその多さは比べものにならなかつた。魚は仲間同士で抱きあつたり縺れあつたりするやうに水をびちや/\と云はして体を搦ましあつた。
「鯉でせうか、」
省三は眼を見張つた。
「そんなに騒ぐものぢやありませんよ、静になさいよ、お客さんがびつくりなさるぢやありませんか、」
女は魚の方を見てたしなめるやうに云つた。省三の耳にはその女の言葉が切れ/″\に聞えた。省三は女の顔を見た。
「このボートで行つてると、湖の魚が皆集つて来るのでございますよ。でも、あまり多く集つて来るのも煩いではございませんか、」
「鯉でせうね、私はこんな鯉をはじめて見ましたね、この湖では鯉をとらないでせうか、」
「とりますわ、この湖で鯉をとつて生活してゐる漁夫は沢山ありますわ、」
「さうですか、そんなに鯉をとつてるのに、こんなに集つて来るのは、鯉も大変ゐるんですね、」
「先生をお迎へするために集つたのでせうが、もう、帰しましたよ、」
省三は水の上を見た。今までゐた鯉はもうゐなくなつて鉛色の水がとろりとなつてゐた。
「もう、ゐなくなつたでしよ、ね、それ、」
省三は呆気に取られて水の上を見てゐた。と一尾の二尺ぐらいある魚が浮きあがつて来てそれが白い腹をかへして死んだやうに水の上に横になつた。
「死んだんでせうか、あの鯉は、」
「あれは、先生に肉を御馳走した鯉でございますわ、」
「えツ、」
「いゝえ、先生は、今晩宿で鯉こくを召しあがつたでございませう。このあたりは、鯉が多うございますから、宿屋では、朝も晩も鯉づくめでございますわ、」
女はかう云つて惚れ惚れする声を出して笑つた。
四
省三は眼が覚めたやうに周囲を見まはした。青みがかつた灯の燭つた室で自分は黒檀の卓を前にして坐つてゐてその左の側に女が匂ひのあるやうな笑顔をしてゐた。
「私は、どうして此所へ来たでせう、」
省三はボートの中で鯉の群と死んだやうな鯉の浮いて来たのを見てゐる記憶があるばかりで、舟からあがつたことも路の上を歩いたこともその家の中へ這入つて来たこともどう云ふものかすこしも判らなかつた。
「私と一緒にずんずんお歩きになりましたよ、よく夜なんか、知らないところへ参りますと、狐に撮まれたやうにぼうとなるものでございますわ。本当に失礼致しました。こんな河獺の住居のやうな所へお出でを願ひまして、」
「どう致しまして、静かな、湖に臨んだ理想的なお住居ですね、」
省三はその家の位置が判つたやうな気になつてゐた。
「これから寒くなりますと、締つきりにしなくてはなりませんが、まだ今は見晴しがよろしうございますわ、」
女は起つて行つて省三から正面になつた障子を開けた。障子の外は小さな廊下になつてそれに欄干がついてゐたがその欄干の先には月がぼかされた湖の水が漂渺としてゐた。
「すぐ水の傍ですね、実に理想的だ、歌をおやりでせうね、」
省三は延び上るやうに水の上を見ながら云つた。女は障子へ寄つかかるようにして立つてゐた。
「真似事を致しますが、とても駄目でございますわ、」
「そんなことはないでせう。かう云ふ所にゐらつしやるから、」
「いくら好い所にをりましても、頭の中に歌を持つてをりません者は、駄目でございますわ、」
女はかう云つて笑ひ声を立てたがそのまま体の向きをか
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