は柱が傾き、簷《のき》が破れ、落葉の積んだ廻廊には、獣の足跡らしい物が乱雑に著《つ》いていた。李生は気味が悪いが他にどうすることもできないので、廡下《のきした》へ腰をおろし、手にしていた弓を傍へ置いて、四辺《あたり》に注意しながら休んでいた。廟の前の黒い大木の梢には、二つ三つの星の光があった。
人の声とも獣の声とも判らない声が聞えてきた。李生は耳を傾けた。それは国王や大官の路を往く時に警蹕《けいひつ》するような声であった。その声はしだいに近くなってきた。
どうも不思議な事だと李生は思った。こうした深山の中で、しかも夜になって警蹕する者は何者であろう。大胆不敵な強盗か、それとも妖怪の類か、とても普通の貴族大官ではあるまい。もしそうだとすると、こうしておることは危険である。これはどこかへ身を隠して、それを見届けたうえで、それに対する手段を考えなければならないと思った。彼はちょっと考えた後で、弓を持ってそこの柱へすらすらと登って、欄間から梁の上へ往った。
警蹕の声がすぐ入口に聞えて、紅い二つの燈が見えてきた。その燈に続いて数人の怪しい人影が見えたが、やがてそれが脚下《あしもと》の方で渦を捲いて静まった。李生は呼吸《いき》をころしてのぞいた。紅燈の燈はとろとろと燃えていた。三山の冠を被り、淡黄袍《たんこうほう》を著けて、玉帯をした者が神座へ坐って、神案《しんあん》に拠りかかり、その従者であろう十人あまりの者が、手に手に戟《ほこ》を持って階下の左右に別れて立っていた。冠を著た者の顔は蒼黒い大きな猿の顔であった。李生は階下の者の顔にも眼をやった。それも皆猿の顔であった。
果して妖怪の類であった。李生は矢を抜いて弓に添え、冠を著た妖怪を覘《ねら》って放した。矢は妖怪の一方の臂《ひじ》に当った。と、おそろしい混乱がそこに起って、紅燈が消えてしまった。李生は二本目の矢をつがえて下の方へ注意していたが、真暗で何も見えないけれども、もう四辺がひっそりして妖怪もいそうにないので、矢を著けた妖怪は朝になって探すことにして、下へおりて仮睡に就いた。
朝になった。冷たい霧が朝風に吹かれて切れ切れになって飛んで往った。李生は起きて神座の辺《ほとり》に注意した。たまっている朽葉の上に赤黒い血の滴点《したたり》があった。李生はその血の滴点をつけて廟を出た。血の滴点は山の南の畝《うね》りに沿
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