死体の匂い
田中貢太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)面《ま》のあたり

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)天柱|拆《さ》け

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]野《そや》な顔
−−

 大正十二年九月一日、天柱|拆《さ》け地維欠くとも言うべき一大凶変が突如として起り、首都東京を中心に、横浜、横須賀の隣接都市をはじめ、武相豆房総、数箇国の町村に跨がって、十万不冥の死者を出した災変を面《ま》のあたり見せられて、何人か茫然自失しないものがあるだろうか。
 世俗の怖れる二百|十日《とおか》の前一日、二三日来の驟雨《しゅうう》模様の空がその朝になって、南風気《みなみげ》の険悪な空に変り、烈風強雨こもごも至ってひとしきり荒れ狂うていたが、今思うとそれが何かの前兆でもあるかのように急にぱったり歇《や》んで、気味悪いほどに澄んだ紺碧の空が見え、蒔きずての庭の朝顔の花に眼の痛むような陽の光が燃えた。ちょうど箪笥《たんす》の上に置いた古い枕時計が五分遅れの十一時五十分を指していた。
 私は二階で客と話していた。私も客も煙草を点《つ》けたばかりのところであった。黒みだって吹き起って来る旋風の音のような、それで地の底に喰い入って往くような音がしたので、煙草を口元から除《と》ってその物の音を究《きわ》めようとする間もなく、家がぐらぐらと揺れだし、畳は性のあるものが飛び出そうとでもするかのように、むくむくと持ちあがりだした。私は驚いてその畳の上をよろよろと歩いたが、その瞬間、妻と子供を二階へあげようと思いだした。で、そのまま下へ駈けおりた。
 妻は玄関口へべったり坐って、左の手で柱に捉まり、右の手で末の女の児を抱き寄せるようにしておろおろしている傍に、八つになる女の児は畳の上に両手を這《は》うように突いて泣いていた。上の二人の子供は暑中休暇に土佐へ往ってまだ帰っていなかったので、手足纏いがすくなかった。末の女の児は赤いメリンスの単衣を着ていた。私はいきなり末の児に手をかけて、妻と二人で掻きあげるようにして抱き、姉の児を押しやり押しやり先に立てて二階へあがった。
 家はまだゆらゆらと揺れていた。妻ははずれかけた次の室との境の襖の引手に手をかけてそれに取りつこうとしたが、襖がはずれて取りつけなかった。が、その内に地の震いは小さくなって来た。私はその時客のいないことに気がついたが、地震の小さくなった間に、妻や子供を外へ出さなくてはならないという考えの方へ気を取られて、それ以上客のことを考えることができなかった。その客は私のいない間に簷《のき》から飛んで右の足首をくじいていた。私は妻をうながして自分で末の児を抱き、妻に姉の児の手を曳かして、おりて玄関口へと往ったが、妻や子供を先に出して自分が後から出ないと危険があるような気がしたので、妻に末の児を負ぶわし姉の児の手を曳かして先へ出し、自分は後から出て往った。
 私の家の門の出口の左角になった古い木造のシナ人の下宿は、隣の米屋や靴屋の住んでいる一棟が潰れて押されたために門の内へ倒れかかっていた。地の震えは後から後からとやって来た。私は妻と子供をすぐ近くの寄宿舎の庭へと伴れて往った。そこは奈良県の寄宿舎であった。私はそれから足に怪我をしている客を負ぶって伴れて来たが、後の激震が気がかりであるから、地震の静まるまでそこにいることに定めて、家へ入って往って筵《むしろ》を持って来た。付近の者も続続と避難して来た。私はまた煙草を買い蝋燭を買って来た。酒屋へサイダーを取りに往った時、潰れた家の簷を破っている者があるので、それに手を貸して瓦を剥いだ。その屋根の下からは若い女とその夫らしい頬髭の延びた黄いろな顔をした男とが出て来た。
 私はその一方で藤坂をあがって、その近くに住んでいる友人の家へと往った。大塚行きの電車の線路に沿うた両側の家では、皆線路の上に避難していた。潰れた家は見えなかったが、どの家も屋根瓦がひどく落ちていた。友人の細君も避難者の中に交って筵の上に坐り、洋傘を日覆いにして、生れたばかりの嬰児を抱いていた。
 大砲を撃つような音が時折聞えだした。火事だ火事だという声が人びとの口から漏れるようになった。牛込の下宿から私の家の安否を気使うて来てくれた若い友達は、砲兵工廠が焼けていると言った。私はその友達と一緒に電車通りを伝通院前へと往った。渦を捲いている人波の中には、蒲団などを蓋の上にまで乱雑に積みあげた箱車を数人の男女で押している者、台八車に箪笥や風呂敷包の類を積んでいる者、湯巻と襦袢の肌に嬰児を負ぶって小さな子
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング