りの消炭のような物を置いてある所があった。私はそれは女の負ぶっていた子供の死体であろうと思った。
風は正面から吹いていた。すこしでも手拭の覆いに隙ができると恐ろしい臭気が鼻を刺した。私はもう斜めに突き切るのが厭になったので、右の方の死体の少ない方に反れ反れして走った。
鉄骨の建物があってその前にも二三人の人がいて火を焚いていた。私はその火が身寄りの者の死骸を焼いている火だということを知った。その中には女も一人交っていた。その人たちもそれぞれ鼻にハンカチをやっていた。私はその傍を通って左に建物の間を潜って往った。その建物を出はずれると焼け残りの塀があって、外は電車通りになっていた。
私はその電車通りを歩きかけてから再び驚かされた。その被服廠跡と電車通りとを隔てた溝の中は、幾百幾千とも判らない、目刺鰯の束を焼いたようになった黒焦げの死体で埋まっていた。私は、なるほどこの被服廠跡の焼死者が三万余と言うのも誇大ではないと思った。その溝の上になった被服廠跡にはまだ動かさない死体の丘ができていて、それを人夫たちがおろして外へ運んでいる傍に、身寄りの者を尋ねているらしい人たちが散らばって、死体をあっちこっちと覗いていた。
私は帰りに吾妻橋の袂から荷足船で兵士に渡してもらって、浅草公園へと廻った。公園では浅草寺と観音堂とが残っていた。その観音堂は銀杏《いちょう》の緑葉に取り囲まれて涼しい風を宿していた。花屋敷の焼け跡には一疋の猿が金網の中にきょとんとしており、十二階は地震のために上の三階が堕ちて九階になっていた。この十二階の建物は半カ月ばかりの後に爆薬で破壊してしまった。
私は公園の山のベンチに腰をかけて、上野の山を眼界にして左右にひろびろと広がった白い焼野原を見ながら、花屋敷の前で買って来た梨の実を噛《かじ》った。鼻のどこかにまだ死体の厭な匂いが残っているような気がした。
底本:「貢太郎見聞録」中公文庫、中央公論社
1982(昭和57)年6月10日発行
底本の親本:「貢太郎見聞録」大阪毎日新聞社・東京日日新聞社
1926(大正15年)12月
※「それぞれ鼻にハンカチを」の「それぞれ」は底本では「それそれ」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:鈴木厚司
校正:多羅尾伴内
2003年8月27日作成
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