いと云ふやうにして困つた顔をしてゐた。
(見えない、あれ、あれが見えないのか、)
 養父は人さし指の先を顫はしてゐた。
(何も見えは致しませんよ、それはお気の勢でございますよ、早く室へお帰りになつて、御飯をおあがりなさいまし、何もゐはしませんよ、)
(ゐないことがあるか、あれを、あの黒い蝶がみえないのか、あの蝶が、)
(蝶なんか見えませんよ、それは旦那様の気の勢でございますよ、)
(見えないことがあるか、あの黒い蝶が、あの蝶を、お前はなんと思つてるんだ、あれや、大変な奴だぞ、)
 養父はさう云つて四辺を白い凄い眼で見廻はしてゐたが、いきなり庭へ飛びおりた。
(あれ、旦那様、)
 乳母が驚いて庭におりたので、続いて飛びおりたところで、養父はぎらぎらする陽の光を潜つて板塀の傍へちよこちよこと小走りに走つて行つて、其所の花壇の朝顔に立てた女竹の一本を抜いたその女竹に絡んで咲いてゐた朝顔の萎れた紫の花が、一二枚の葉の付いた蔓と一緒になつて飛んだ。
(旦那様、旦那様、)
 乳母はその方へと追つて行つた。養父は乳母の方を睨みつけた。
(邪魔をするな、邪魔をすると承知しないぞ、これをそのままにして置いて、どうするつもりなんだ、馬鹿、)
 乳母は近くへ寄ることが出来なかつた。乳母の後へ行つた自分もどうすることも出来ないのではらはらして立つてゐた。
 養父は凄い眼をもう空間にやつて、怪しい物の影を覘ふやうにしてゐたが、やがてその覘がついたのか、手にしてゐた竹を振りあげてなぐりつけた。
(こら、)
 怪しい物の影はそれで飛んで行つたのか、養父はまた竹を振りあげながら空間を覘つた。
(こら、)
 怪しい物の影はまたそれたものと見える。
(しまつた、畜生、)
 養父はまた一足二足歩いて行つて、また空間をなぐりつけた。
(今度こそどうだ、)
 養父はなぐりつけた跡をちよつと見たが口惜しさうな顔をした。
(また逃げやがつた、畜生、逃がすものか、)
 竹はまた閃いた。
(これでもか、これでもか、こら、これでもか、)
 養父はもう見界なしに、そのあたりをなぐつて歩いた。
(こら、これでもか、これでもか、畜生、これでもか、)
 養父の叫び声が物凄く聞えた。
(若旦那、仕方がありません、無理にでも室へおあげしませう、)
 乳母が此方を向いて決心したやうに云つた。
(さうだね、仕方がない、押へつけやう、
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