のが聞えた。
「おや、今晩は、今、お帰りでございますか、」
 入口のカーテンの下に面長な女の顔が見えた。それは氷屋の娘であつた。
「二時頃から中野の方へ行つてましてね、帰りに道寄りしてましたから、遅くなりました、」
 義直は脚を止めてゐた。
「おや、中野へ、それは大変でございましたね、お暑かつたでございませう、」
「暑いですな、それでも今晩は涼しいぢやありませんか、」
 店の中で年老つた女の声がした。娘がそれに返事をした。
「宮原の若さんですよ、」
 娘はまた義直の方に黒い眼を見せた。
「今日は、割合にお涼しうでございますね、まあ、ちとおかけくださいまし、」
「有難う、……叔父が夕方になつて見えなかつたでせうか、」
「山本の旦那さまでございますか、お見えにならなかつたやうでございます、が、」
 娘の顔は斜に内の方へと向いた。
「お母さん、今日、夕方、山本の旦那さまが、宮原さんへゐらしたか知らないこと、」
 老婆の声がかすれたやうに聞えて来た。
「……山本の旦那さま、お見えにならないやうだよ、お女中さんは、夕方ゐらしたのか、帰るところをちらと見かけたが……、」
「さう、」
 娘はまた此方を向いた。
「お女中さんだけは、お見かけしたさうでございますが、」
 それではやはり女中を呼びによこしたもんだと義直は思つた。
「さうでしたかね、明後日が一周忌だもんですから、中野のお寺へ行つてたんですよ、」
「さうでございますか、もう一周忌、お早いものでございますね、」
「早いもんですよ、今日、お寺へ行つて、夕方に帰つて来るのを、道寄してましたから、叔父が待ち遠しがつて、来たんぢやないかと思ひましてね、ぢや、自分に来ずに女中をよこしたもんでせう、」
 帰つたならすぐ来るやうにと云つて来てゐるだらうと思つた。彼は早く家へ帰つてみやうと思つた。娘が驚いたやうに云つた。
「蝶だよ、まあ、大きな蝶だよ、」
 娘は体をがたがたと動かした。
「なんだ、吃驚さするぢやないか、」
 若い男が笑ひながら云つた。
「真黒い奴だな、あの博物の教師に持つててやらうか、」
 それは違つた若い男の声であつた。
「薄気味の悪い、杉浦さん、どうかしてくださいよ、あれ、あんなに、なにか考へでもあるやうに電燈のまはりを飛ぶんぢやありませんか、」
 娘はさも気味悪いと云ふやうな声で云つた。
(黒い蝶、さつきにも黒い蝶がゐ
前へ 次へ
全23ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング