、名をいってください。何しに来たのです。」
 と追窮《ついきゅう》した。女は静かにいった。
「私は、あなたが風雅な方で、こうして寂しそうにしていらっしゃいますから、今晩お話しのお相手になろうと思ってまいりました。私のまいりました故《わけ》をあまり精《くわ》しく訊かれますと、私もあがることができませんし、あなたもまた私を入れてくださらないでしょうから。」
 金はそこでまたこの女は隣の不身持な女だろうと思いだしたので、自分の品性を汚《けが》されるのを懼れて、
「それは大いに感謝しますが、若い男と女が、夜、同席するということは、世間の手前もありますし、だいいち、あなたにお気の毒ですから。」
 といった。と女は流し目に金を見た。金はそれに魅せられて我を忘れてしまった。婢は金の容子《ようす》をもう見てとった。そこで女に向って、
「霞《か》さま、私はこれから帰りますよ。」
 といった。女はうなずいたが、やがて婢を呵《しか》った。
「帰るなら帰ってもいいわ。雲《うん》だの霞《か》だのってなんです。」
 婢はもういってしまった。女は笑っていった。
「だれも人がいなかったから、とうとうあれを伴《つ》れてきましたが、ほんとにばかですよ。とうとう幼《おさ》な名《な》をあなたに聞かしてしまいましたわ。」
 金はいった。
「あなたがこんなにまで用心なさるのは、めんどうなことが起るからじゃないですか。僕はそれを心配するのですよ。」
 女はいった。
「久しい間には、私のことも自然と解りますわ。私は決して、あなたの行いを敗るようなことは致しません。決して御心配なされることはありませんわ。」
 そこで女は寝台の上にあがり、きちんと着ていた衣服を緩《ゆる》めて、臂《うで》にはめている腕釧《うでわ》をあらわした。それは条金《じょうきん》で紫金の色をした火斉珠《かせいしゅ》をとおして、それに二つの明珠《めいしゅ》をはめこんだものであった。燭《ひ》を消してしまっても、その腕釧の光が室の内を照らして明るかった。金はますます駭《おどろ》いたが、とうとうその女がどこから来たかということを知ることができなかった。
 話がすんでから婢が来て窓を叩いた。女は起《お》きて腕釧の光で徑《こみち》を照らして、木立の中へ入っていった。
 それから夜になって女の来ないことはなかった。金はある時、女の帰っていくのを遥かにつけていったが、女がもうそれを覚《さと》ったものか遽《にわ》かに腕釧の光を蔽《おお》った。すると木立の中は真暗になって、自分の掌《てのひら》さえ見えないようになったので引返した。
 ある日金は河の北の方へいった。と、笠の紐《ひも》が断《き》れて風に吹かれて落ちそうになった。そこで金は馬の上で手を以ておさえていた。河へいって小舟に乗ったところで、強い風が来て笠を吹き飛ばして、波のまにまに流れていった。金はひどく残念に思ったが仕方がなかった。
 そして河を渡ったところで、ふと見るとさっき流した笠が大風に漂わされて空に舞っていた。そして、それがだんだん落ちて来て風の前に来たので、手で以て承《う》けたが、不思議に断れていた紐がもとのようにつながっていた。
 金は自分の室へ帰って女と顔をあわせた時、その日のことを精しく話した。女は何もいわずに微《ひそ》かに晒《わら》った。金は女のしたことではないかと思って聞いた。
「君は神だろう。はっきりいって僕のうたがいをはらしてくれ。」
 女はいった。
「寂しい中で、私のような女ができて、くさくさすることがなくなっておりましょう。私は悪いものではないということを自分でいいます。たとえ私がそんなことをしたとしても、やっぱりあなたを愛しておるからです。それを根ほり葉ほりするのは、きれようとなさるのですか。」
 金はそこでもう何もいわなかった。
 その時金は甥女《めい》を養っていたが、すでに結婚してから、五通の惑わすところとなった。金はそれを心配していたが、それでもまだ他人にはいわなかった。ところで女と知りあって久しくなって心の中に思ったことは何事も口にするようになったので、ある時そのことを話していた。すると女はいった。
「こんなことなんか私の父ならすぐ除くことができるのですが、どうしてあなたのことを父にいえましょう。」
 金は女の力を借るより他に手段がないと思ったので、
「なんとかして、お父さんに頼むことができないだろうか。僕をたすけると思って、やってくれないか。」
 といって頼んだ。女はそれを聞いてじっと考えていたが、
「なに、あんなものは何んでもありませんわ。ただ私がゆくことができないものですから。あんなものは皆私の家の奴隷です。もし、あんなものの指が私の肌にさわろうものなら、この恥は西江の水でも洗うことができないですから。」
 といった。金はそれ
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