、名をいってください。何しに来たのです。」
と追窮《ついきゅう》した。女は静かにいった。
「私は、あなたが風雅な方で、こうして寂しそうにしていらっしゃいますから、今晩お話しのお相手になろうと思ってまいりました。私のまいりました故《わけ》をあまり精《くわ》しく訊かれますと、私もあがることができませんし、あなたもまた私を入れてくださらないでしょうから。」
金はそこでまたこの女は隣の不身持な女だろうと思いだしたので、自分の品性を汚《けが》されるのを懼れて、
「それは大いに感謝しますが、若い男と女が、夜、同席するということは、世間の手前もありますし、だいいち、あなたにお気の毒ですから。」
といった。と女は流し目に金を見た。金はそれに魅せられて我を忘れてしまった。婢は金の容子《ようす》をもう見てとった。そこで女に向って、
「霞《か》さま、私はこれから帰りますよ。」
といった。女はうなずいたが、やがて婢を呵《しか》った。
「帰るなら帰ってもいいわ。雲《うん》だの霞《か》だのってなんです。」
婢はもういってしまった。女は笑っていった。
「だれも人がいなかったから、とうとうあれを伴《つ》れてきましたが、ほんとにばかですよ。とうとう幼《おさ》な名《な》をあなたに聞かしてしまいましたわ。」
金はいった。
「あなたがこんなにまで用心なさるのは、めんどうなことが起るからじゃないですか。僕はそれを心配するのですよ。」
女はいった。
「久しい間には、私のことも自然と解りますわ。私は決して、あなたの行いを敗るようなことは致しません。決して御心配なされることはありませんわ。」
そこで女は寝台の上にあがり、きちんと着ていた衣服を緩《ゆる》めて、臂《うで》にはめている腕釧《うでわ》をあらわした。それは条金《じょうきん》で紫金の色をした火斉珠《かせいしゅ》をとおして、それに二つの明珠《めいしゅ》をはめこんだものであった。燭《ひ》を消してしまっても、その腕釧の光が室の内を照らして明るかった。金はますます駭《おどろ》いたが、とうとうその女がどこから来たかということを知ることができなかった。
話がすんでから婢が来て窓を叩いた。女は起《お》きて腕釧の光で徑《こみち》を照らして、木立の中へ入っていった。
それから夜になって女の来ないことはなかった。金はある時、女の帰っていくのを遥かにつけていっ
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