子が傍へ来て笑っていた。
「貴郎《あなた》はひどい方ね」
焦生はもう大胆になっていた。彼はすぐ女の子の手を握った。
「何がひどいの」
「ひどいのよ」
二人は顔を見合わして笑った。女の子は何か言おうとしかけたが、耳を赤くしただけで何も言わなかった。
「貴女のお婿さんは、どうなっているの」
「あなたは奥さんをもらうの」
「もらいますとも」
老人が大きな声をしながら入ってきた。女の子は急いで出て往った。焦生は起きた。
「大雪ですよ」
焦生は窓の処へ往って戸を開けて見た。綿をひきちぎったような大雪が粉々《ふんぷん》と降って世界が真白になって見えた。
「なるほど大雪だ」
「とても、二三日はたたれませんよ、ゆっくり御逗留なさい」
焦生と老人が向き合って※[#「卓」の「十」に代えて「木」、第4水準2−14−66]に寄りかかると、老婆と女の子が御馳走をこしらえて持ってきた。
焦生は老人と二人で酒を飲みながらその御馳走に箸をつけた。
「甚だ失礼ですが、お宅のお嬢さんは、何処かへ、もう、縁談がおきまりになっておりますか」
「まだきまっておりません、何処かもらってくれる方があれば、いいがと思っておりますが、まだそうした家が見つかりません」
「甚だ失礼ですが、私にくださいますまいか」
「ほんとうにあなたがもらってくださるなら、喜んでさしあげます」
焦生はその夜珊珊と結婚したが、翌日になると珊珊を馬に乗せ、自分達二人は徒歩で出発した。
やがて目ざす都へ往って、其処で家を借りて落着き、進士の試験を受けてみると、うまく及第して、会稽《かいけい》の令に任ぜられた。で、珊珊を伴《つ》れて赴任したが、非常に成績があがったので、翌年には銭塘《せんとう》の太守となった。そうなると、焦生の許《もと》へはたくさんの客がくるようになった。客の中には焦生を利用して、私腹を肥やそうとする者もあった。珊珊はそんな客は中に入れないようにした。客の方では珊珊を邪魔者にして、金を集めて窈娘《ようじょう》という妖婦を購《あがな》って焦生に献上した。焦生は窈娘の愛に溺れて珊珊を顧《かえりみ》なくなるとともに、政事も怠りだした。
窈娘は焦生を自分の者にしたものの、珊珊が傍にいては邪魔になるのでそれをのけようとした。そこで窈娘は飲物の中へ毒を入れて待っていた。何も知らない焦生は、窈娘の室へ来て見ると、旨そうな酥酪《そらく》があるので口にしようとした。窈娘は急いでその手をおさえた。
「すこし待ってください、どうもすこし怪しいことがありますから」
窈娘はその飲物を取って庭前《にわさき》に遊んでいる犬の前へ捨てた。犬は喜んでそれをべろべろと嘗めはじめたが、皆まで嘗めないうちに唸声を立ててひっくりかえって死んでしまった。
「これは、奥さんのやったことですよ」
焦生は珊珊を悪魔のように思いだしたが、すぐ放逐するわけにもいかなかった。そのうちに、焦生の悪政が中央へ知れて、今にも罪を得そうになってきた。焦生は腹心の客と相談して、権力のある中央の大官に賄賂を入れてその罪を遁《のが》れようとした。そこで、莫大な金を出して、王鼎《ぎょくてい》と冬貂《とうてん》を買い入れたが、買った晩に鼎が破れ、裘《けごろも》が焼けてしまった。窈娘はそれを珊珊の仕業だと言った。焦生は狂人のようにして杖で珊珊を打ち叩いた後に、外へ突き出してしまった。
賄賂がゆかなかったために、焦生は罪を得て雲南軍の卒伍《そつご》の中へ追いやられることになった。三人の監者《かんしゃ》が焦生を送って、鳳凰庁下《ほうおうちょうか》の万山という山の中まで往った。もう長いこと道を歩いたことのない焦生は、それがために両足が腫れあがって動けなくなった。監者達はびしびしと叩いて歩かせようとしたが、とても歩けそうにもないので、いっそ殺してしまって雲南へ行く労を遁れようとした。
監者の一人は刀を抜いて焦生の首に持って往った。一匹の虎が何処からともなく出てきて、その監者をはじめ三人の者を食い殺した。死人のようになって意識を失っていた焦生は、耳許で女の声がするので恐るおそる眼を開けて見た。其処には珊珊が立っていた。
「私は、ほんとうは人間ではありません、貴郎がお父さんを助けてくだされましたから、その御恩返しに、貴郎のお傍にいて、いろいろ災難を防いであげました」
世の中に身の置き処がなくなった焦生は、珊珊に伴れられてその家へ往った。それは見覚えのある彼の家であった。小さな乳呑児が榻の上に寝ていた。
「これはあなたの児《こども》ですよ」
焦生夫婦は後に上昇したのであった。
底本:「中国の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年8月4日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年発
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