血の痕はないかと思ってそのあたりを見廻ったが、それらしい物は見えなかった。
 そこへ老婆も起きて来て、新一といっしょになって見廻ったが、べつにそんなものも見えなかった。で、老婆はその後でまだ開けてない雨戸をすっかり開けてからまた見廻ったが、やはり何も見えなかった。
「やっばり何もないのですね」
 老婆は新一に短刀を持って来さして念のために改めてみた。短刀には微黒いものが乾き附いていた。
「たしかにこれは血だがなあ」
 新一の耳には短刀を投げた時に怪しいものの発した声が残っていた。
「たしかに唸ったがなあ」
「ぜんたい何処にいるのだろう」
 奥庭の前《さき》は寺の境内になって竹の菱垣がしてあったが、この一二年手入をしないので処どころに子供の出入のできるような穴が開いていた。其処は寺の卵塔場になっていて樫や楓・椿などの木が雑然と繁っていた。
「お寺の方へ往ってみよう」
 新一はそのまま庭前《にわさき》のほうへ歩いて往った。破れた竹垣の傍には穂のあぎた芒が朝風にがさがさと葉を鳴らしていた。新一は時どきその垣根の破れを潜って卵塔場へ遊びに往くことがあるのでよく案内は知っていた。其処には五輪になった円い大きな石碑や、平べったいのや、角いのや、無数の石塔が立ち並んでいた。木の上では小鳥が無心に啼いていた。
 新一はその墓場の中を彼方此方と歩きながら、もしや血が落ちていはしないかと見て廻ったが、足端《あしさき》にこぼれる露があるばかりで色のあるものはなかった。墓の前に植えつけた桔梗の花も見えた。
 新一は己《じぶん》の家へ帰って来た。老婆が台所で釜の下を炊いていた。
「姨《おば》さん、何にもいなかったよ」
「お寺の中にはおりませんよ、お祖師様が、そんな悪いものは置きませんから」
「そうかなあ」
 朝飯ができて老婆がお滝の室《へや》へ往ってみると、お滝はすやすやと眠っていた。
「お媽《かみ》さんは今朝はよくやすんでますよ、悪いものが離れたかも判りませんよ」
「そうかなあ」
「今晩|験《ため》してみたら判りますよ」
 お滝はその日は寝床の中にいることはいたが非常に穏かであった。老婆は気に逆うてはいけないと思ったので、黙って飯を持って往って置いて来ると、お滝は何時の間にか喫《く》ってあった。
「今晩験してみたら判りますよ」
 老婆は夕飯を喫いながら新一にこんなことを云った。
「あれで来なくなると好いがなあ」
「もう来ませんよ」
 その晩も新一は茶の間で寝て老婆は奥の間に寝ることになった。新一はその晩もついすると怪しいものが来るかも判らないと思って、夜着の下に短刀を隠しながら一方母親の容子に注意していたが、夜半比《よなかごろ》になるとつい睡ってしまった。そして、眼を覚した時には朝になっていた。
「坊ちゃん、もう眼が覚めましたか」
 老婆はそこへ起きて来て云った。
「ああ、もう夜が明けたかい、お母《っか》さんはどうだろう」
「昨夜《ゆうべ》、遅くまで起きて、蒲団の上に坐ってたようでしたが、独言も云いませんでしたよ、坊ちゃんの処には、変ったことはなかったのですか」
「ああなかったのだよ」
「じゃ、やっぱり憑物が離れたのですね、これで二三日すりゃ好いのですよ」
「では、彼奴、死んじゃったろうか」
「そうですね、どうかなったのでしょうよ」
 その日もお滝は表座敷から出て来なかったがへんな挙動はしなくなった。新一はそれに安心して昼からすぐ近くの朋友《ともだち》の処へ遊びに往った。朋友は吉と云う魚屋の伜であった。二人はその魚屋の入口で顔を合した。
「新ちゃん、この間うち、ちっとも来なかったが、何《ど》うしていたのだ」
「おいらは、お母《っか》さんに狐が憑いたから、それで来なかったよ」
「なに、狐が憑いた、ほんとうかい」
「ほんとうとも、嘘を云うもんか、おいらは、その狐を斬ったよ」
「嘘云ってら、狐が斬れるものか」
「でも、斬ったのだよ」
「じゃ、死んじゃったかい」
「逃げちゃったよ、彼奴を殺したかったよ、どうかして、あんな奴を殺せないかなあ」
「狐は化けるから殺せないよ、家のお父《とっ》さんが云ったよ、狐でも狸でも、銀山の鼠取を喫わせりゃ、まいっちまうって」
「そうかい、銀山の鼠取かい、鼠取ならおいらの家にもあるよ」
 新一はそれから吉と一二時間も遊んでいたが、母親のことが気になりだしたので急いでかえって来た。

       六

 お滝はやはり表座敷から出て来なかったが、その晩もその翌晩も、もう独言も云わなければ怪しい挙動もしなかった。ただ新一は彼《あ》の怪しい獣を逃がしたのが残念でならないので、短刀を抜いて怪しい血糊を見たり、吉から聞いた銀山の鼠取のことを考えてみたりした。
 某日《あるひ》新一は、やはりその怪しい獣のことを考えながら、往くともなしに寺の
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