って往った。
 人びとはじっとして猪作の出て来るのを待っていた。煙草を一ぷく吸う位の間を置いて、猪作が潜った処から二間ばかりの前《さき》の水の上が傘を拡げたようにぱっと赤濁った、と思う間もなく、魚のように腹をかえして浮きあがって来たものがあった。それは右の腕の附け根から切り執られた猪作の死骸であった。腕の切り口にはなまなました血が見えていた。人びとはわっと云って逃げた。

 猪作が怪しい死方をしたのでもうほど落ちへ往ってお種を探さなかったが、他に手がかりがないうえにほど落ちにはたしかに櫛があったところから、お種も猪作のような怪しい死方をしているものとして、お種の家ではお種のいなくなった日を命日にしてその冥福を祈ることになった。
 お種がそんなことになった時、お種の家の者にもまして悲しんだのは伝蔵であった。伝蔵は日傭に来たかえりには何時もお種の家へ寄って母親を慰め、それによって己《じぶん》を慰めていた。
 その日も伝蔵は日傭の帰りにお種の家へ寄って母親と話していて遅くなって帰って往った。それは雨催《あめもよ》いの暗い夜であった。伝蔵は日浦坂をあがって池の近くへ往った。と、
「来な、来な」
 と、何処からともなしに呼ぶ声がした。伝蔵は不思議に思って足を止めた。
「来な、来な」
 と、はじめの声がまた云った。伝蔵は、
「くそっ」
 と、云って舌打ちしたが強いて往くのもいけないとおもったので、引返して日浦坂と虚空蔵山の間にある坂を越えた。
 其処には越えた処に巫女《みこ》ヶ奈路《なろ》という窪地があった。伝蔵がその窪地まで往ったところで、むこうの方に在る大きな岩の上に不思議なものが現れた。
 それは十二一重《じゅうにひとえ》を着て緋の袴を穿いた美しい官女の姿であった。大胆な伝蔵は今晩は不思議なこともあるものだとおもって衝立ったなりにそれを見ていた。と、官女の姿は消えて甲冑をつけた武人の姿が現れた。武人の姿はやがて内裏のような金光燦然とした宮殿にかわった。と、宮殿は不動明王のような体の四方に炎の燃えている仏像にかわった。
 伝蔵は嘲り笑いをして立っていた。と、仏像はみるみる消えて甲良《こうら》が十二畳敷以上もありそうに思われる大きな蟹の姿が現れて来たが、その背には伝蔵の忘れることのできないお種が腰をかけていた。伝蔵は猪作の死ざまから連想して、お種をみいれて殺したのは彼の蟹であると思った。伝蔵は火のように怒って拳を固めて蟹に飛びかかって往こうとすると、体がしびれて判らなくなってしまった。
 そして、気が注いて眼を開けてみると、己《じぶん》は巫女ヶ奈路の草の上で寝て夜が明けたところであった。そこで伝蔵は静《しずか》に起きて家へ帰って来たが、それ以後は不思議なことにも逢わなかった。



底本:「日本の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
   1986(昭和61)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:Hiroshi_O
校正:小林繁雄、門田裕志
2003年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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