てゐた。それは先き店へ来た老婆の様であつた。
「遅くなつてすみません、」
「旨い物はさう手取早く出来るもんではないよ、へ、へ、へ、さあ此方へお出でよ、」
老婆は萠黄の茎を分けるやうにしてひよろひよろと歩いて行つた。お菊さんはその後から歩いた其所はもう傾斜はなくなつてゐたが、雲の上にゐるやうで足に踏堪へがなかつた。
「此所だよ、此所からお這入りよ、」
お菊さんはもう玄関のやうな青醒た光の中に立つてゐた。
「旦那、旦那、やつと来ましたよ、」
老婆の声がしたかと思ふと太つた青膨れた北村さんの顔が眼の前に見えて来た。お菊さんはほつとした。その拍子にお菊さんの呼吸があぶくのやうになつて口からぶくぶくと出た。
お菊さんは北村へ出前を持つて行つたきり帰らなかつた。バーでは手分けをして捜索したが、だいいち北村と云ふ家もなければ、何所へ行つたのかさつぱり判らなかつた。しかし客には失踪したとも云へないので、聞く者があると、
「芝の親類へお嫁に行つたんですよ、」
と云つてゐた。ところが或る雨の降る静な晩、時たま店へ来る童顔の頬髯の生えた老人がやつて来た。老人は何所で飲んだのかぐてぐてに酔つて顔を赭くしてゐた。
「おい、一人の女はどうしたんだ、」
と老人が云ふので、お幸ちやんは例によつて、
「芝の親類へお嫁に行つたんですよ、」
と云つた。老人はそれを聞くと、テーブルへ片肱をついてそれで頬を支へながら、こくりこくりとやりだしたが、急に眼を開けて云つた。
「あの女が芝なんかにゐるもんかい、あれや雨で大河からあがつて来た奴に連れて行かれたんだよ、彼奴を何んと思ふんだ、頭から顔からつるつるとしてゐたんだらう、」
老人はかう云つてから、またこくりこくりとやりだした。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
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