った。飯田は驚いた。それは甲府の町にいるはずの妻ではないか。彼は一昨年甲府を脱走して京都に入り、勤王の士と往来しているうちに、鳥羽伏見の役となり、それから討幕の軍がおこったので、彼も土佐藩の手に属して故郷に来たものの、幕兵との戦《いくさ》があったために、甲府の町に往くこともできなかったが、二三日のうちには、隙を見て妻を訪《おとな》おうと心|窃《ひそか》に喜んでいるところであった。彼は手にしている鉄扇を執り落そうとして気が注《つ》いた。
女は澄ましてその前に来て静に茶を置いた。面長な濃艶な頬から鼻にかけて生なまとした見覚えがあったが、女が余り澄ましているので、もしや人違ではないかと思ってかけようとした詞《ことば》を抑えた。女は両手を突いてうやうやしく俯向いた。白いその首筋から細そりした肩のあたりにも見覚えがあった。右の耳の下には何時も見ている小さな黒子《ほくろ》さえあった。
「お前さんは、お高じゃないか」
女は顔をあげたが冷やかな顔をしていた。
「そうではありません」
飯田は不審でたまらなかった。
「お前さんは、私の顔に見覚えはないのか」
「ありません」
こう云って女はぶ鬼魅《きみ》そうにして、そそくさと出て往った。飯田は呆然としてその後を見送っていた。
厨の方が急に騒がしくなった。飯田は気が注いて隻手《かたて》を刀にかけた。と、慌しい跫音がして部下の一人が草鞋のまま飛んで来た。
「厨の隅に生血の附いた脚絆があったから、坊主を押えて詮議しようとすると、坊主が逃げ出したから、押えて縄をかけました」
「女はどうした」
「あれも逃げようとしますから、いっしょに縄をかけました」
飯田は二人に縄をかけたを幸いに女の詮議もしてやろうとおもった。彼は刀を持って部下といっしょに玄関口ヘ出た。僧と女を縛りあげて玄関の柱に繋いであった。
「住持、変った姿を見て気の毒じゃが、どうしてその方はこうした姿になられた」
飯田は縛られたなりに悄然と立っている僧を見おろして云った。その傍に女も首を垂れて立っていた。
「昨夜、幕府の脱走兵が五六人来て、私を嚇して泊って往きましたが、その脚絆の一つが残っておりましたために、お疑いを受けました」
と、僧は顫えながら云った。飯田は女の右の二の腕の腫物の痕を見たかった。
「よし、そうか、それじゃ大した罪でない、それは好いとして、その女の右の二の
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