四十五銭戴きます、」
 客は黒い小さな蟇口を胸の所で開けてゐた。
「さう、それぢや後はあんたに、」
 客は一円札を皿の傍へ置くと、帽子を直しながら起ちあがつた。
「有難うございます。またどうぞお願ひ致します、」
 お幸ちやんは客を送り出さうとして預つた傘のことを思ひ出した。彼は葭壁に凭せかけた客の雨傘を取つた。振り返つて待つてゐる客の顔がやさしく笑つてゐた。
「どうも有難う、」
 客は傘を受取つて心持頭をさげるやうにしてから出て行つて、外へ出るとちよつと立ち止まつて傘をぱつとひろげた。お幸ちやんは敷居の所へまで行つて見送つてゐた。
 傘にあたる雨の音がちよつとの間佗しく聞えてゐたが客の姿がすぐ見えなくなつた。お幸ちやんはそれでも立つてゐた。

 お幸ちやんは見付の棚の前に引寄せた椅子に腰をかけてゐた。それは夜遅く客の帰つた後であるかそれとも昼間の客の来ない時であるか、お幸ちやんの意識にはそんなことはなかつた。
 お幸ちやんの眼の前をその時黄色な蛾が飛んでゐた。お幸ちやんはその蛾を見ると共に、小柄な柔和な綺麗な男の顔を見てゐた。……本当にやさしい方だ、どうした方だらう、服装から、容貌きから、何所かの若旦那であろうが、どうも商人の家の方ではない、この附近には沢山お屋敷があるから、そのお屋敷の方だらう、そのお屋敷の方がこんな穢いバーへ来るのは、物好に何か珍しい物でも見物する気で、ゐらつしやるだらう、あんな方には今まで会つたことがない、あんな方が家の兄さんにか弟かにあつたなら、どんなに嬉しいだらう、と、お幸ちやんは、それからそれへと考へを追つて行つた。
 黄色な蛾はまだ何所かにひらひらと飛んでゐた。……人間は邪見だとあの方が仰つしやつたが、本当に人間は好い顔をしてゐて、邪見な者ばかりだ、本当にあの方の仰つしやつた通りだ、なる程穢い粉をお皿の中や盃の中へ落すのは困るが、別に悪いことをするのではない、電燈の光を追つて来て、蝶の身になれば嬉しくてたまらないので、人間がダンスでもするやうにやつてゐる所ぢやないか、それをいきなり、扇でなぐり殺さうとしたり、手で掴んで土間へ叩きつけようとしたり、本当に人間ほど邪見なものはない、人間は嫌ひだ、自分も人間を相手にしない蝶や鳥のをるやうな所へ行きたい。
「お幸ちやん、お幸ちやんと云つたね、」
 お幸ちやんはびつくりして顔をあげた。綺麗な顔の客
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