とやつた。若い綺麗な女中が心持ち赤らんだ顔を此方へ向けてにつと笑つた。それは客と話をして笑つたものであらうが、自分の眼とその眼とがぴつたり合つたやうに思つて、秀夫は極まりがわるいのでちよと牛肉屋の二階の方に眼をやつた。と、彼は五六日前に友達の一人が牡蠣船に行つて、其処の女中から筑前琵琶を聞かされたと言つたことを思ひ出して、俺もこれから行つてみやうかと思つた。しかし彼は一人で料理屋へ行つたことがないので、眼に見えない幕があつてそれが胸先に垂れさがつてゐるやうで、おつくうですぐ行かうと言ふ気にはなれなかつた。
 秀夫はその牡蠣船では牡蠣料理以外に西洋料理も出来ると聞いてゐたので、西洋料理の一皿か二皿かを取つてビールを飲んでも好いと思つた。西洋料理を喫つてビールを飲むことなら友達と数回やつてゐるので彼にも自信があつた。それでポチを五十銭も置けば良いだらうと思つた。彼は欄干を離れて下の方へと歩きかけた。牡蠣船のある方の岸は車の立場になつてゐて柳の下へは車を並べその傍に小さな車夫の溜を設けてあつた。車夫小屋と並んで活動写真の客を当て込んで椎の実などを売つている露店などもあつた。秀夫はその前を通つて使者屋橋の袂にその入口を向けた牡蠣船の前へと行つたが、小さな階段によつて船の中へとおりて行くその入口を正面にすると、足が硬ばつたやうになつて這入れなかつた。
 秀夫は後戻りをして牡蠣船の前から又新京橋の方へと行つてはじめの場所に立つて見た。綺麗な女中は琵琶を持つてゐた。澄んだ鈴のやうな声で歌つてゐるらしかつたが声が小さいので聞ゑなかつた。それでは友達の琵琶を聞かされたと言ふのはあの女であつたかと彼は思つた。
 その内に女は又此方を見た。紅い唇があり/\と見えるやうに思はれた。今晩は仕方がないから明日の晩は夕飯を喫はずに行つてみやうと思つて彼は懐の勘定をした。懐には十円近い小遣があつた。西洋料理を一皿二皿喫つてビールを一本飲む位なら三四円もあれば良いだらう、と、彼は友達と西洋料理に行つた時の割前を考へ出してゐた。
 翌日秀夫は銀行へ行つて課長の眼の無い隙を見て、牡蠣船へ行つたと言ふ友達にそれとなく牡蠣船の勘定などを聞いてゐたが、その夕方下宿へ帰つて来ると湯に入つて夕飯は喫はずに日の暮れるのを待つて出かけた。そして新京橋の上へ来てみると牡蠣船は艫の左側の室の障子が開いて客らしい男の頭が二
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