て陽がかげってきたので、喬生は驚いて帰りかけたが、遠慮なしに打ちくつろいで飲んだ酒が気もちよく出てきたので、彼は伸び伸びした気になって歩いていた。蛙《かわず》の声が聞えてきた。
喬生は湖縁の路を取らずに湖の中の堤を帰っていた。堤の柳は芽を吐いて、それが柔かな風に動いていた。彼の体は湖心寺の前へ来ていた。いつの間にか日が暮れて夕月が射していた。
喬生はふと魏法師の戒めを思いだした。彼は厭な気がしたので、足早に通り過ぎようとした。
「旦那様」
それは聞き覚えのある女の声であった。喬生は驚いて眼をやった。金蓮が来て前へ立っていた。
「お嬢さんがお待ちかねでございます、どうぞいらしてくださいまし」
喬生の手首には金蓮の手が絡《からま》ってきた。喬生はその手を振り放して逃げようとしたが逃げられなかった。金蓮は強い力でぐんぐんと引張った。喬生は濁った靄《もや》に脚下《あしもと》を包まれているようで足が自由にならなかった。
「旦那様は、ほんとうに薄情でございますのね」
喬生は金蓮の手を振り放そうと悶掻《もが》いたが、どうしても放れなかった。
「そんなになさるものじゃございませんわ」
喬生はもう廻廊の上へ引きあげられていた。
「さあ、お入りくださいまし、ここでございます」
喬生は室の中へ引き込まれた。真紅の色の鮮やかな牡丹燈が微白《ほのじろ》く燃えていた。
「あなたは、妖道士に騙されて、私をお疑いになっておりますが、それはあんまりじゃありませんか、ほんとうにあなたは、薄情じゃありませんか」
麗卿が燈籠の下にしんなりと坐っていた。喬生はまた逃げようとした。
「ほんとにあなたは、薄情でございます、ね、でもこうしてお眼にかかったからには、どんなことがあっても、お帰ししませんから」
女は起ってきて喬生の手を握った。と、その前にあった棺桶の蓋が急に開いた。
「さあ、この中へお入りくださいまし」
女はその棺桶の中へまず自分の体を入れてから、喬生を引き寄せた。棺桶は二人を内にして、そのまま閉じてしまった。
翌日になって喬生の隣の老人は、喬生が帰ってこないので心配して彼方此方と探してみたが、どうしても居処《いどころ》が判らない。いろいろ考えた結果、湖心寺の棺桶のことを思いだして、付近の者を頼んでいっしょに湖心寺へ行って、棺桶のある室へ行ってみた。
棺桶の蓋の間から喬生の着ていた衣服《きもの》のはしが見えていた。老人は驚いて住職を呼んできた。住職は棺桶の蓋を取った。喬生はまだ生きているような若い女の屍と抱きあうようにして死んでいた。
「この女は奉化州判の符君の女《むすめ》でございますが、今から十二年前、十七の時に亡くなりましたので、かりにここへ置いてありましたが、その後、符君の処では、家をあげて北へ移りましたから、そのままになっておりました」
住職はそれから女と喬生を西門の外へ葬ったが、その後、雨曇りの日とか月の黒《くら》い晩とかには、牡丹燈を点《つ》けた少女を連れた喬生と麗卿の姿が見えて、それを見た者は重い病気になった。土地の者は懼《おそ》れ戦《おのの》いて、玄妙観へ行って魏法師にこの怪事を祓《はら》うてくれと頼んだ。
「わしの符※[#「竹かんむり/(金+祿のつくり)」、第3水準1−89−79]《かじふだ》は、事が起らん前《さき》なら効があるが、こうなってはなんにもならん、四明山に鉄冠《てっかん》道人という偉い方がおられるから、その方に頼むがいい」
土地の者は魏法師の言葉に従うて、藤葛《ふじかずら》を攀《よ》じ、渓《たに》を越えて四明山へ行った。四明山の頂上の松の下に小さな草庵があって、一人の老人が几《つくえ》によりかかって坐っていた。草庵の前には童子が丹頂の鶴の世話をしていた。人びとは老人の前へ行って拝《おじぎ》をした。
「わしは、こんな処へ籠っている隠者だから、そんなことはできない、それは何かの聞き違いだろう」
人びとは玄妙観の魏法師から教えられて来たと言った。
「そうか、わしは、今年で、もう、六十年も山をおりたことはないが、饒舌《おしゃべり》の道士のために、とうとう引っぱり出されるのか」
道人は鶴の世話をしている童子を呼んで、それを伴《つ》れて山をおりかけたが、鳥の飛ぶようで追いついて行けなかった。人びとがへとへとに疲れてやっと西門外へ行った時には、道人はもう方丈の壇を構えていた。
やがて道人は壇の上へ坐って符を書いて焚いた。と、三四人の武士がどこからともなしにあらわれてきた。皆黄いろな頭巾を被って、鎧を着、錦の直衣《ひたたれ》を着けて、手に手に長い戟《ほこ》を持っていた。武士は壇の下へきて並んで立った。
「この頃、邪鬼が祟りをして、人民を悩ますから、その者どもを即刻捕えてこい」
武士は道人の命令を聞いてどことなしに行ってしまったが、間もなく、喬生、麗卿、金蓮の三人の邪鬼に枷鎖《かせ》をして伴れてきた。
武士は邪鬼にそれぞれ鞭を加えた。邪鬼は血塗《ちまみ》れになって叫んだ。
「その方どもは、何故に人民を悩ますのじゃ」
道人はまず喬生からその罪を白状さして、それをいちいち書き留めさした。その邪鬼の口供の概略をあげてみると、喬生は、
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伏して念《おも》う、某、室《しつ》を喪って鰥居《かんきょ》し、門に倚って独り立ち、色《しき》に在るの戒を犯し、多欲の求を動かし、孫生が両頭の蛇を見て決断せるに効《なら》うこと能《あた》わず、乃《すなわ》ち鄭子《ていし》が九尾の狐に逢いて愛憐するが如くなるを致す。事既に追うなし。悔ゆとも将《は》た奚《なん》ぞ及ばん。
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符女は、
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伏して念《おも》う、某、青年にして世を棄て、白昼《はくちゅう》隣《りん》なし。六魄離ると雖《いえど》も、一霊未だ泯《ほろ》びず、燈前月下、五百年歓喜の寃家《えんか》に逢い、世上民間、千万人風流の話本《わほん》をなす。迷いて返るを知らず、罪|安《いずく》んぞ逃るべき。
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金蓮は、
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伏して念う、某、殺青《さっせい》を骨《こつ》となし、染素《せんそ》を胎《たい》と成し、墳※[#「土へん+龍」、第3水準1−15−69]《ふんろう》に埋蔵せらる。是れ誰か俑《よう》を作って用うる。面目|機発《きはつ》、人に比するに体を具えて微なり。既に名字の称ありて、精霊の異に乏しかるべけんや。因って計を得たり。豈《あに》敢《あえ》て妖をなさんや。
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武士はその供書を道人の前へさしだした。道人はこれを見て判決をくだした。
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蓋《けだ》し聞く、大禹《たいう》鼎《かなえ》を鋳《い》て、神姦鬼秘《しんかんきひ》、その形を逃るるを得るなく、温※[#「山+喬」、第3水準1−47−89]《おんきょう》犀《さい》を燃して、水府竜宮、倶《とも》にその状を現わすを得たりと。惟《こ》れ幽明の異趣、乃《すなわ》ち詭怪《きかい》の多端、之に遇えば人に利あらず、之に遭えば物に害あり。故に大※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《だいれい》門に入りて晋景《しんけい》歿《ぼっ》し、妖豕《ようし》野《の》に啼いて斉襄《せいじょう》※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]《そ》す。禍を降し妖をなし、※[#「宀/火」、第4水準2−79−59]《さい》を興し薜《せつ》をなす。是を以て九天邪を斬るの使を設け、十地悪を罰するの司を列ね、魑魅魍魎《ちみもうりょう》をして以てその奸を容るる無く、夜叉《やしゃ》羅刹《らせつ》をして、その暴を肆《ほしいまま》にするを得ざらしむ。矧《いわ》んやこの清平の世、坦蕩《たんとう》の時においておや。而るに形躯《けいく》を変幻し、草木に依附《いふ》し、天|陰《くも》り雨|湿《うるお》うの夜、月落ち参《しん》横たわるの晨《あした》、梁《うつばり》に嘯《うそぶ》いて声あり。その室を窺えども睹《み》ることなし、蠅営狗苟《ようえいくこう》、羊狠狼貪《ようこんろうたん》、疾《はや》きこと飃風《ひょうふう》の如く、烈しきこと猛火の若《ごと》し。喬家の子生きて猶お悟らず、死すとも何ぞ恤《うれ》えん。符氏の女死して尚お貪婬《たんいん》なり、生ける時知るべし。況んや金蓮の怪誕なる、明器を仮りて以て矯誣《きょうふ》し、世を惑わし民を誣《し》い、条に違い法を犯す。狐|綏々《すいすい》として蕩たることあり、鶉《うずら》奔々《ほんほん》として良なし、悪貫已に盈《み》つ。罪名宥さず。陥人の坑、今より填《み》ち満ち、迷魂の陣、此より打開す。双明の燈を焼毀《しょうき》し、九幽の獄に押赴《おうふ》す。
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武士達は泣き叫ぶ邪鬼を曳いて行った。そして、武士達が見えなくなると、道人も起ちあがって童子を伴れて行ってしまった。
翌日土地の者は、道人に昨日の礼を言おうと思って、四明山頂の草庵へ行ったが、草庵は空になって何人もいなかった。土地の者は道人の行方を訊こうと思って玄妙観へ行ってみると、魏法師は口が利けなくなっていた。
底本:「中国の怪談(一)」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年5月6日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年11月30日発行
入力:Hiroshi_O
校正:小林繁雄、門田裕志
2003年9月17日作成
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