。続いて二、三人登っていったが、皆王の鶉のために負けてしまった。旅館の主人は王成にいった。
「今だ。」
二人は一緒に登っていった。王は王成の手にした鶉を見て、
「眼に怒脈《どみゃく》があるな、これは強い鳥だ。弱い鳥ではいけない。鉄口を持って来い。」
といいつけた。侍臣の一人が喙《くちばし》の黒い鶉を持って来て王成の鶉に当らした。二羽の鶉は一、二度蹴りあっただけで王の鶉の羽が痛んでしまった。王は更に他の良いのを選んで当らしたが、それも負けてしまった。王は、
「急いで宮中の玉鶉を持って来い。」
といいつけた。侍臣が王の命のままに持って来たのは羽の真白な鷺《さぎ》のような鶉で、ただの鳥ではなかった。王成はその鶉を見てしょげてしまい、ひざまずいて罷《や》めさしてくれといった。
「大王の鶉は、神物でございます。私はこの鳥で生計《くらし》たてておりますから、傷でも負うようなことがあっては、たちまち困ってしまいますから。」
主は笑っていった。
「まァ放してみるがいい。もし鶉が死んでしまったら、その方に十分|償《つぐな》いをしてとらせる。」
王成はそこで鶉を放した。王の鶉はすぐに王成の鶉に向って飛びかかった。王成の鶉は王の鶉が来ると、鶏の怒ったようなふうで身を伏《ふ》せて待った。王の鶉が強い喙でつッかかって来ると、王成の鶉は鶴の翔《かけ》るようなふうでそれを撃った。進んだり退いたり飛びあがったり飛びおりたり、ものの一時も闘っていたが、王の鶉の方がようやく懈《つか》れて来た。そして、その怒りはますます烈《はげ》しくなり、その闘いもますます急になったが、間もなく雪のような毛がばらばらに落ちて、翅《はね》を垂れて逃げていった。見物していたたくさんの人達は王成の鶉をほめて羨まない者はなかった。
王はそこで王成の鶉を手に持って、喙《くちばし》より爪先《つまさき》まで精《くわ》しく見てしまって、王成に問うた。
「この鶉は売らないか。」
王成はここぞと思ったので、
「私は財産がございませんから、この鶉で命をつないでおります。売るのは困ります。」
といった。すると王がいった。
「たくさん金を取らせる。百金を取らせるがどうじゃ。売りたいとは思わぬか。」
王成は俯向《うつむ》いて考えてからいった。
「私は、もともと鶉を飼うのが本職でもございませんから、大王がこれをお好みになりますなら、私に衣食のできるだけのことをしていただければ、それでよろしゅうございます。」
「それでは幾等《いくら》と申すか。」
「千両でよろしゅうございます。」
王は笑っていった。
「たわけ者|奴《め》。この鶉がどれほどの珍宝で、千両の価《ね》があるのじゃ。」
「大王には宝ではございますまいが、私に取っては連城《れんじょう》の璧《たま》でも、これにはおっつかないと思っております。」
「それはどういう理由じゃ。」
「私はこれを持って、毎日市へ出てまいりまして、毎日幾等かの金を取って、それで粟《あわ》を買って、一家十余人が餒《う》えず凍《こご》えずにくらしております。これにうえ越す宝がありましょうか。」
「わしは、くさすではない、あまり法外であるからいったまでじゃ。では二百両とらそう。」
王成は首をふった。
「それはどうも。」
すると王が金を増した。
「ではもう百両とらせようか。」
王成は首をふりながら旅館の主人の方をそっと見た。主人はすましこんでいた。そこで王成はいった。
「大王の仰せでございますから、それでは百両だけ負けましょう。」
王はいった。
「だめじゃ。誰が九百両の金を一羽の鶉と易《か》える者がある。」
王成は鶉を嚢《ふくろ》に入れて帰ろうとした。すると王が呼びかえした。
「鶉売り来い、鶉売り来い。それでは六百両取らそう。承知なら売っていけ、厭ならやめるまでじゃ。」
王成はまた主人の方を見た。主人はまだ自若としていた。王成の望みは満ちあふれるほどであった。王成は早く返事をしないと機会を失って大金をもうけそこなうと思ったので、
「これ位の金で売るのは、まことに苦しゅうございますが、この話がこわれるようなことがありますと、罪を獲《う》ることになりますから、しかたがありません。大王の仰せのままにいたしましょう。」
といって売ることにした。王は喜んで金を秤《はか》って王成に渡した。王成はそれを嚢に入れて礼をいってから外へ出た。外へ出ると主人がうらんでいった。
「わっちがあれほどいってあるじゃないか。なぜ売り急ぎをするのです。もうすこしふんばってるなら八百両になったのですぜ。」
王成は旅館へ帰ると金を案《つくえ》の上へほうりだして、主人に思うだけ取れといったが主人は取らないで、食料だけの金を計算して取った。
王成はそこで旅装を整えて帰り、家に着いてそれまでの経過を話して、金を見せて慶びあった。老婆はその金で王成にいいつけて三百|畝《ほ》の良田を買わせ、屋《いえ》を建て道具を作らしたので、居然たる世家《きゅうか》となった。老婆は朝早く起きて王成に農業の監督をさし、細君に機織《はたおり》の監督をさした。そして二人がすこしでも懶《なま》けると叱りつけたが、夫婦は老婆の指揮に安んじていて怨みごとはいわなかった。三年過ぎてから家はますます富んだ。その時になって老婆が帰るといいだした。夫婦は涙を流して引き留めた。それで老婆も留まったが翌日見るともういなかった。
底本:「聊斎志異」明徳出版社
1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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