》という名で、苗字は古《こ》というよ。子も孫も皆若死して、この女だけが遺っておる。ちょうど睡っておったから、そのままにしておったが、婆さんが起したと見える。」
「お婿さんは何という方です。」
「まだ許嫁《いいなずけ》になっておらんよ。」
 山は喜んだ。そのうちに肴がごたごたと並んだが、旅館のこんだてに似ていた。食事が終ってから山はおじぎをしていった。
「旅をしておりますと、どんな方に御厄介になるかも解りません。ほんとうに御世話をかけました。この御恩は決して忘れません、ほんとにあなたのお蔭です。そのうえ、だしぬけに、こんなことを申しましてはすみませんが、私に三郎という弟があります。十七になりますが、書物も読み、商売をさしても、それほど馬鹿ではありません。どうかお嬢さんと縁組をさしていただきたいですが。貧乏人ですけれども。」
 老人は喜んでいった。
「わしもこの家は、借りておる。もしそうなれば、一軒借りて移っていってもいい。そうするなら懸念《けねん》もなくなる道理じゃ。」
 山はすべてそれを承諾した。そこで起って礼をいった。老人も殷勤《いんぎん》に後始末をして出ていった。
 朝になって鶏が鳴いた。老人は起きて来て、山に顔を洗わして食事をさした。山はすっかり仕度して金を出した。
「これはすこしですが、食物代にとってください。」
 老人はどうしてもとらなかった。
「一晩の宿じゃないか、金をもらうわけがない。それに婚礼の約束をした間柄じゃないか。」
 山はそこで一家の者と別れて、一ヵ月あまり旅をして返って来た。そして村から一里あまり離れた所へいったところで、老婆が一人の女を伴《つ》れていくのに逢った。それは喪中であろう、冠《ぼうし》から衣服まで皆白いものを着ていた。そして近くへいってみると、どうもその女が阿繊に似ているように思われた。女もまた頻《しき》りにこちらを見ていたが、やがて老婆の袂《たもと》をつかまえて、その耳の傍《そば》へ口を持っていって囁《ささや》いた。老婆は足を停《と》めて山に向っていった。
「あんたは奚《けい》さんではありませんか。」
 山はいった。
「そうですよ。」
 老婆は悲しそうな顔をしていった。
「お爺さんは、崩れかかった牆《かき》に圧しつぶされて死んじゃったよ。今、ちょうど墓詣りにいくところだ。家にはだれもいないから、ちょっと路ばたで待っててください
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