阿英
蒲松齢
田中貢太郎訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甘玉《かんぎょく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|玉《ぎょく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「王+玉」、第3水準1−87−90]《かく》
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甘玉《かんぎょく》は幼な名を璧人《へきじん》といっていた。廬陵《ろりょう》の人であった。両親が早く亡くなったので、五歳になる弟の※[#「王+玉」、第3水準1−87−90]《かく》、幼な名を双璧《そうへき》というのを養うことになったが、生れつき友愛の情に厚いので、自分の子供のようにして世話をした。そして※[#「王+玉」、第3水準1−87−90]がだんだん大きくなったところで、容貌《かおかたち》が人にすぐれているうえに、慧《りこう》で文章が上手であったから、玉はますますそれを可愛がった。そしていつもいった。
「弟は人にすぐれているから、良い細君がなくてはいけない。」
そして選択をしすぎるので、婚約がどうしても成立しなかった。その時|玉《ぎょく》は匡山《きょうざん》の寺へいって勉強していた。ある夜|初更《しょこう》のころ、枕に就《つ》いたところで、窓の外で女の声がした。そっと起きて覘《のぞ》いてみると、三、四人の女郎《むすめ》が地べたへ敷物を敷いて坐り、やはり三、四人の婢《じょちゅう》がその前に酒と肴をならべていた。女は皆すぐれて美しい容色《きりょう》をしていた。一人の女がいった。
「秦《しん》さん、秦さん、阿英《あえい》さんはなぜ来ないの。」
下の方に坐っていた者がいった。
「昨日、凾谷《かんこく》から来たのですが、悪者に右の臂《て》を傷つけられたものですから、一緒に来られなかったのよ。ほんとに残念よ。」
一人の女がいった。
「私、昨夜夢を見たのですが、今に動悸《どうき》がするのよ。」
下の方に坐っていた者が手を揺《ふ》っていった。
「およしなさいよ、およしなさいよ。今晩皆で面白く遊んでるじゃありませんか。おっかながるからだめだわ。」
女は笑っていった。
「お前さん怯《ひきょう》だよ。何も虎や狼がくわえていくのじゃあるまいし。もしお前さんが、それをいわないようにしてもらいたいなら、一曲お歌いなさいよ。」
女はそこで低い声で朗吟《ろうざん》[#ルビの「ろうざん」はママ]した。
[#ここから2字下げ]
間階桃花《かんかいとうか》取次に開く
昨日|踏青《とうせい》小約未だ応《まさ》に乖《もと》らざるべし
嘱付《しょくふ》す東隣の女伴
少《すこし》く待ちて相催すなかれ
鳳頭鞋子《ほうとうあいし》を着け得て即《すなわ》ち当《まさ》に来るべし
[#ここで字下げ終わり]
朗吟が終った。一座の者で賞《ほ》めない者はなかった。一座はやがて笑い話になった。不意に大きな男があらわれて来た。それは恐ろしい顔の鶻《くまだか》のように眼のぎらぎらと光る男であった。女達は口ぐちにいった。
「妖怪《ばけもの》だ。」
皆あわてふためいて鳥が飛び散るようにばらばらになって逃げた。ただ朗吟していた者だけは、なよなよとした姿でためらっているうちにつかまえられ、啼《な》き叫びながら一生懸命になって抵抗した。怪しい男は吼《ほ》えるように怒って、女の手に噛みついて指を噛み断《き》り、それをびしゃびしゃと噛《か》んだ。女はそこで地べたに※[#「足へん+倍のつくり」、第3水準1−92−37]《たお》れて死んだようになった。玉は気の毒でたまらなかった。そこで急いで剣を抽《ぬ》いて出ていって切りつけた。剣は怪しい男の股《あし》に中って一方の股が落ちた。怪しい男は悲鳴をあげて逃げていった。
玉は女を抱きかかえて室の中へ伴《つ》れて来た。女の顔色は土のようになっていた。見ると襟《えり》から袖にかけてべっとりと血がついていた。その指を験《しら》べると右の拇《おやゆび》が断《き》れていた。玉は帛《きぬ》を引き裂いてそれをくるんでやった。女は気がまわって来て始めて呻《うめ》きながらいった。
「あぶない所を助けていただきまして、どうしてお礼をしたらいいでしょう。」
玉は覘《のぞ》いていた時から、心の中でこんな女を弟の細君にしてやりたいと思っていたので、そこで弟と結婚してもらいたいと言った。女はいった。
「かたわ者は、人の奥さんになることができませんから、べつに弟さんにお世話をしましょう。」
玉はそこでそれは何という女であるかといってその姓を訊いてみた。
「何という方でしょう。」
女はいった。
「秦《しん》というのです。」
玉《ぎょく》はそこで衾《やぐ》を展《の》べて暫く女をやすまし、自分は
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