合さ、」
「でも、夢であんなことがあるんでせうか、今でも口惜しいんですよ、あの奥様をどうかして、赤ん坊を取つて来て、投げつけてやりたいと思つたんですよ、」
「やつぱり体だ、体が好けれや、そんな夢は見ないよ、」
月の表を霧のやうな雲が飛んで沖の方からは強い風が吹いてゐた。砂丘の小松の枝が音を立ててゐた。落松葉が顔にかかつた。砂丘をおりて小川の板橋を渡らうとすると、向ふから渡つて来た人があつた。京子は草の中へ寄つて向ふから来るのを待つてゐた。村の人らしい帽子を冠らない老人であつた。老人は京子の顔をぢつと見た後に砂丘の方へとあがつて行つた。
京子は橋を渡つた。京子の心は緊張してゐた。京子はずんずんと船板の門の中へと這入つて行つた。彼はもう壁の額も茶の間も見ずに夫婦の寝室へと這入つた。細君の寝床には赤ん坊ばかりで細君は見えなかつた。
「厠へでも行つてるだらう、宜い所だ、」
京子はいきなり赤ん坊を抱きあげて寝床の上に坐つた。赤ん坊はすやすやと睡つて覚めなかつた。夫の方のぐうぐうと鳴る寝息が耳に付いた。
「この人質を持つてをれば、女がどんなにしても負けることはない、」
京子は斯う思つて勝利者の愉快を感じてゐた。
「大変、大変、あなた、早く起きて下さいよ、又彼奴が来てゐるんですよ、」
入口へ立つた細君が縁側を踏みならすやうにして叫んだ。京子は冷笑を浮べてその顔を見た。
「奥様、今晩は私が勝つたんですよ、人質が此所に居りますから、」
夫の方も起きあがつた。
「何の恨があつて、あなたはそんなことをなさるんです、」
細君は口惜しさうに云つた。
「何にも恨は無いんですよ、恨はないが、この赤ん坊が好きだから抱きに来たんですよ、」
京子は冷笑を浮べて云つた。
「好きでも何んでも、誰に許可を受けて、ここへ這入つて来た、」
夫は立つて京子の方へやつて来た。
「そんなことは聞く必要がない、赤ん坊を抱かすことはならん此方へ寄越せ、」
細君も這入つて来た。
「お寄越しなさい、それは私の赤ん坊ですよ、あなたに抱かすことはなりませんよ、」
京子は子供を抱いたなりで立ちあがつた。
「いくら何んと云つても、この赤ん坊はもう渡しませんよ、」
夫の手は京子の肩にかかつた。細君の手は赤ん坊にかかつた。
「駄目ですよ、」
京子は二人の手を払い除けるやうにして茶の間の方へと行つた。夫婦は叫び声をあげて追つて来た。京子は茶の間へ這入つた。茶の間の電燈の下には、細君の縫ひかけた洗ひ張の着物の畳んだ物と、ちいさな栽縫箱とが[#「栽縫箱とが」はママ]あつた。栽縫箱には[#「栽縫箱には」はママ]柄を赤く塗つた花鋏があつた。京子は其鋏を片手に取つて広げながら赤ん坊の首の所へと持つて行つた。夫婦は入口へとやつてきた。
「乱暴するなら、これを斯うするんですよ、」
細君の悲痛な叫びが聞えた。細君の両手は鋏を持つた京子の手にかかつた。京子の手がそのはずみに働いた。赤ん坊の首が血に染まりながらころりと畳の上に落ちた。
京子は夫に抱き竦められて寝床の上にゐた。京子は眼をきよときよとさして四辺を見廻した。
「赤ん坊の首なんかがあるもんか、何所にそんなものがある、」
夫は叱るやうに云つた。京子はそれでも恐ろしさうな眼をして四辺を見てゐた。
「矢張り夢さ、体が悪いからそんな夢を見るんだ、今日は脳病院へ行つて、石川博士に診察して貰はう、体のせゐだよ、」
京子は稍気が静まつて来た。
「夢でせうか、本当に恐ろしかつたんですよ、」
「夢さ、神経衰弱がひどくなると、つまらん夢を見るもんだよ、」
二
学校の休みになるを待ち兼ねて京子の夫は京子を連れて、海岸へとやつて来た。其所は山裾になつた土地で、山の方には温泉もあつた。二人は先づ友人から聞いた海岸の旅館へ行つてその上で貸間を探すことにして、汽車からおりると海岸へと向つたが、その海岸へは俥で行くと十四五町もあるが、歩けば五町にも足りないと云ふので、雇うた俥屋にトランクを担がして、夫婦はちひさなバスケツトを一つづつ持つて歩いた。
二時を廻つたばかりの所であつた。風の無い蒸し暑い日で松の葉が真つ直ぐに立つてゐた。松原を出はづれて小松の植はつた砂丘をおりと行くと小さな川が流れてゐた。
「何んだか、私こゝは見覚えがあるやうですよ、」
夫の後から歩いてゐた京子が云つた。
「ちいさい時に、誰かと来たことがあるだらう、」
夫は心持ち振り返るやうに左の片頬を見せた。
「此所へ来たことは無いんですよ。お父さんもお母さんも、昔気質で、旅行なんかしなかつたから来やしないんですよ、」
「さうかなあ、」
丘をおりてしまふとちひさな板橋へ来た。板橋の向ふに真砂を敷いた広い路があつた。
「あの路へ出て来るんだね、」
夫は俥屋に向つて云つた。
「さうです、ずつと廻つてここへ来るんですから、十町以上もありまさア、」
俥屋はトランクの肩を換へて片手にした手拭で顔の汗を拭いた。夫は橋を渡つて行つた。水の中には短い葦が一面に生えてゐた。路の向ふにはすこし高まつた松林の丘があつて其所に三軒ばかり別荘風の家があつた。
京子は厭な顔をして橋の向ふのとつつきにある家を見直した。
「あなた、あなた、」
京子は夫に声をかけた。彼女は橋を渡つて行つた。路の上へあがつた夫は彼の方を向いた。
「何だね、」
「いつかの家ね、この家のやうよ、」
夫には合点がゆかなかつた。
「家つて何んだね、」
「あの夢の家ですよ、」
京子の声は震ひを帯びてゐた。夫はその方へ眼をやつた。竹垣を結ふた船板の門の扉が閉まつた家が眼に付いた。夫は笑ひだした。
「そんな馬鹿なことがあるもんか、」
「でも、さうですよ、小松の生えた丘の具合から、この板橋の具合まで、そつくりですよ、だから見覚があると私が云つたんですよ、」
「そんなことは無いさ、無いが、門が閉まつて空家らしいね、空家なら借りたいもんだが、」
トランクを担いだ車夫がやつて来た。
「俥屋さん、この家は空いてるかね、」
「空いてます、」
「一ヶ月位貸さないだらうか、」
「貸さないことは無いでせうが、この家は、変な家ですよ、先月まで此所にゐた東京者が、赤ん坊を妙な女に締め殺されたつて、借り手が無いんですよ、」
夫は妙な顔をして京子をちらと見た。京子は真青な顔をしてゐた。
「ぢや、まあ宿屋へ行つてからのことにしよう、縁起の悪い家はいけない、」
夫は斯う云つて海岸の方へと歩き出した。京子は並ぶやうにして歩いた。二人はもう何も云はなかつた。向ふの方から老人が一人やつて来た。老人は二人にすれ違はうとして京子の顔をぢつと見た。そしてその眼を車夫に移した、車夫とは見知越の顔であつた。二人は立ちながら何か話しだした。
夫と京子の二人は半町ばかり向ふに歩いてゐた。老人と分れた車夫が早足に追いついて来た。
「旦那、今の男があの家の家主ですよ、」
「さうかね、」
夫は斯う云つたきりで何んとも云はなかつた。車夫は京子の方へ言葉をかけた。
「奥様は、一度、此方へお出でになつた事がありますか、今の男が、何処かでお見かけしたやうだと云つてをりますよ、」
京子は返事をしなかつた。
「いや、これは此方は初めてだ、何処か東京へでも来た時に見たんだらう、」
京子と京子の夫は海岸の旅館の二階に通つてゐた。京子は蒼白い眼をして坐つたなりに俯向いてゐた。
「着物を着換へるが好い、何んでもないよ、お前の夢と、変なこととが暗合したんだ、そんな馬鹿馬鹿しい事があるもんか、」
京子はそれでも動かなかつた。夫は洋服を宿の寝衣に着換へながら、女中の置いて行つた茶を飲んでゐた。
「着物でも着換へると、気が変るよ、お着換へよ、」
京子はそれでも返事をしなかつた。番頭が這入つて来た。番頭の手には名刺があつた。
「この方がちよつとお目にかかりたいと申します、」
夫は手に取つて見た。それは警察の名刺であつた。
「警察か、何の用事だらう、」
夫は斯う云つて考へた。
「近頃は、もう、警察がどなたにでも会ひに来て、煩さくて困るんですよ、此所へ通しませうか、」
「では通して貰はう、」
「本当にお気の毒でございます、」
番頭が腰を上げた。
何か恐ろしい叫び声をしながら京子が立ちあがつた。夫が驚いて腰を浮かした時にはもう彼女は廊下へ出てゐた。そして欄干に片足をかけた。夫は追つて行つて抱き止めた。
「何をする、」
夫は斯う云ひながら庭の方に眼を向けた。庭の赤松の傍を京子とすこしも変らない女が駈けて行つた。夫は眼を見張つて抱いてゐる京子の顔を見返した。それでも不思議であるから、又庭の方を見た。駈けて行つた女の姿はもう見えなかつた。京子は夫の手を振り放さうとしてもがき狂うた。
京子の夫の矢島文学士は、翌日恐怖の塊とも云ふやうになつた京子の体を介抱しながら、東京行の汽車の隅に悄然として腰を掛けてゐた。
底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
2003(平成15)年10月22日初版発行
初出:「黒雨集」大阪毎日新聞社
1923(大正12)年10月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
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