つて云つた。
「さうです、ずつと廻つてここへ来るんですから、十町以上もありまさア、」
俥屋はトランクの肩を換へて片手にした手拭で顔の汗を拭いた。夫は橋を渡つて行つた。水の中には短い葦が一面に生えてゐた。路の向ふにはすこし高まつた松林の丘があつて其所に三軒ばかり別荘風の家があつた。
京子は厭な顔をして橋の向ふのとつつきにある家を見直した。
「あなた、あなた、」
京子は夫に声をかけた。彼女は橋を渡つて行つた。路の上へあがつた夫は彼の方を向いた。
「何だね、」
「いつかの家ね、この家のやうよ、」
夫には合点がゆかなかつた。
「家つて何んだね、」
「あの夢の家ですよ、」
京子の声は震ひを帯びてゐた。夫はその方へ眼をやつた。竹垣を結ふた船板の門の扉が閉まつた家が眼に付いた。夫は笑ひだした。
「そんな馬鹿なことがあるもんか、」
「でも、さうですよ、小松の生えた丘の具合から、この板橋の具合まで、そつくりですよ、だから見覚があると私が云つたんですよ、」
「そんなことは無いさ、無いが、門が閉まつて空家らしいね、空家なら借りたいもんだが、」
トランクを担いだ車夫がやつて来た。
「俥屋さん、この家は空いてるかね、」
「空いてます、」
「一ヶ月位貸さないだらうか、」
「貸さないことは無いでせうが、この家は、変な家ですよ、先月まで此所にゐた東京者が、赤ん坊を妙な女に締め殺されたつて、借り手が無いんですよ、」
夫は妙な顔をして京子をちらと見た。京子は真青な顔をしてゐた。
「ぢや、まあ宿屋へ行つてからのことにしよう、縁起の悪い家はいけない、」
夫は斯う云つて海岸の方へと歩き出した。京子は並ぶやうにして歩いた。二人はもう何も云はなかつた。向ふの方から老人が一人やつて来た。老人は二人にすれ違はうとして京子の顔をぢつと見た。そしてその眼を車夫に移した、車夫とは見知越の顔であつた。二人は立ちながら何か話しだした。
夫と京子の二人は半町ばかり向ふに歩いてゐた。老人と分れた車夫が早足に追いついて来た。
「旦那、今の男があの家の家主ですよ、」
「さうかね、」
夫は斯う云つたきりで何んとも云はなかつた。車夫は京子の方へ言葉をかけた。
「奥様は、一度、此方へお出でになつた事がありますか、今の男が、何処かでお見かけしたやうだと云つてをりますよ、」
京子は返事をしなかつた。
「いや、これは此方は
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