つた。そして、『何《ど》ういふ積りかな。』と首を傾《かし》げて考へる風《ふう》をした。
葉書を持つてゐた福富は、この時『日附は昨日の午前六時にしてありますが、昨日の午前六時なら恰度|此村《ここ》から立つて行つた時間ぢやありませんか。そして消印《スタンプ》は今朝の五時から七時迄としてありますよ。矢張今朝○○を立つ時書いたんでせうね。』と言つた。
すると此木田が突然《いきなり》大きい声をして笑ひ出した。
『甲田さんも随分|好事《ものずき》な事をする人ですなあ。乞食してゐて五十銭も貰つたら、俺だつて歩くのが可厭《いや》になりますよ。第一、今時《いまどき》は大抵の奴あ英語の少し位|噛《かじ》つてるから、中学生だか何だか、知れたもんぢやないぢやありませんか。』
この言葉は、甚《ひど》く甲田の心を害した。たとへ対手が何にしろ、旅をして困つてる者へ金を呉れるのが何が好事《ものずき》なものかと思つたが、ただ苦笑ひをして見せた。甲田は此時もう、一昨日金を呉れた時の自分の心持は忘れてゐた。対手が困つてるから呉れたのだと許り信じてゐた。
『いや、中学生には中学生でせう。真箇《ほんと》の乞食なら、嘘にしろ何にしろこんな葉書まで寄越す筈がありません。』と校長が口を出した。『英語を交《ま》ぜて書いたのは面白いぢやありませんか。初めのマイデヤサーだけは私にも解るが、終ひの文句は何といふ意味です? 甲田さん。』
『私は貴方に一つの幸福を欲する――。でせうか?』と福富は低い声で直訳した。
此木田は立つて帰り仕度をし乍ら、
『仮に中学生にしたところで、態々《わざわざ》人から借りて呉れてやつて訛《だま》されるより、此方《こちとら》なら先づ寝酒でも飲みますな。』
『それもさうですな。』と校長が応じた。『呉れるにしても五十銭は少し余計でしたな。』
『それぢやお先に。』と、此木田は皆に会釈した。と見ると、甲田は先刻《さつき》からのムシヤクシヤで、今何とか言つて此木田|父爺《ぢぢい》を取絞《とつち》めてやらなければ、もうその機会がなくなるやうな気がして、口を開きかけたが、さて、何と言つて可いか解らなくつて、徒《いたづ》らに目を輝かし、眉をぴりぴりさした。そして直ぐに、何有《なあに》、今言はなくても可いと思つた。
此木田は帰つて行つた。間もなく福富は先刻《さつき》の葉書を持つて来て甲田の卓《つくゑ》に置いて、『年老《としと》つた人は同情がありませんね。』と言つて笑つた。そして讃美歌を歌ひに、オルガンを置いてある一学年の教室へ行つた。今日は何か初めての曲を弾くのだと見えて、同じところを断々《きれぎれ》に何度も繰返してるのが聞えた。
それを聞いてゐながら、甲田は、卓の上の葉書を見て、成程あの旅の学生に金を呉れたのは詰らなかつたと思つた。そして、呉れるにしても五十銭は奮発し過ぎたと思つた。
[#地から1字上げ]〔「スバル」明治四十二年十月号〕
底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房
1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行
1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行
初出:「スバル 第十号」
1909(明治42)年10月1日号
入力:Nana ohbe
校正:川山隆
2008年5月24日作成
青空文庫ファイル:
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