』と渠は再《また》目を落した。『でも、モウお決めになつてるんぢやないかと、私は思ひますがねす。』
『僕にはまだ、何の話も無いんですがね。』
『ハア?』と云ふなり、渠は胡散臭い目付をしてチラリと対手の顔を見た。白ツぱくれてるのだとは直ぐ解つたけれど、また何処かしら、話が無いと云つて貰つたのが有難い様な気もする。
 暫らく黙つて居たが、『アノ、田川さんといふ人は、今度初めて釧路へ来られたのですかねす?』
『然うです。』と云つて竹山は注意深く渠の顔色を窺つた。
『今迄何処に居た人でせうか?』
『函館の新聞に居た男です。』
『ハア。』と聞えぬ程低く云つたが、霎時《しばし》して又、『二面の方ですか、三面の方ですか?』
『何方もやる男です。筆も兎に角立つし、外交も仲々抜目のない方だし……。』
『ハア。』と再《また》低い声。『で今後《これから》は?』
『サア、それは未だ決めてないんだが、僕の考へぢやマア、遊軍と云つた様な所が可いかと思つてるがね。』
 渠は心が頻りに苛々《いらいら》してるけれど、竹山の存外平気な物言ひに、取つて掛る機会《しほ》がないのだ。一分許り話は断えた。
『アノ、』と渠は再び顔をあげた。『ですけれども、アノ方が来たから私に用がなくなつたんぢやないですかねす?』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》訳は無いでせう。僕はまだ、モ一人位入れようかと思つてる位だ。』
『ハ?』と野村は、飲込めぬと云つた様な眼付をする。
『僕は、五月の総選挙以前に六頁に拡張しようと考へてるんだが、社長初め、別段不賛成が無い様だ。過般《こなひだ》見積書も作つて見たんだがね。六頁にして、帯広のアノ新聞を買つて了つて、釧路十勝二ヶ国を勢力範囲にしようと云ふんだ。』
『ハア、然うですかねす。』
『然うなると君、帯広支社にだつて二人位記者を置かなくちやならんからな。』
 渠の頭脳《あたま》は非常に混雑して来た。嗚呼、俺は罷めさせられるには違ひないんだ。だが、竹山の云つてる処も道理《もつとも》だ。成程然うなれば、まだ一人も二人も人が要る。だが、だが、ハテナ、一体社の拡張と俺と、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》関係になつてるか知ら? 六頁になつて……釧路十勝二ヶ国を……帯広に支社を置いて…
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