け様に叫んで居る。坂の上に鋼鉄色《はがねいろ》の空を劃《かぎ》つた教会の屋根から、今しも登りかけた許りの二十日許りの月が、帽子も冠らぬ渠の頭を斜めに掠めて、後に長い長い影を曳いた。


 十二時半頃であつた。
 寝る前の平生《いつも》の癖で、竹山は窓を開けて、暖炉の火気に欝した室内の空気を入代へて居た。※[#「門<嗅のつくり」、99−下−14]《げき》とした夜半の街々、片割月《かたわれづき》が雪を殊更寒く見せて、波の音が遠い処でゴウゴウと鳴つて居る。
 直ぐ目の下の病院の窓が一つ、パツと火光《あかり》が射して、白い窓掛《カーテン》に女の影が映つた。其影が、右に動き、左に動き、手をあげたり、屈んだり、消えて又映る。病人が悪くなつたのだらうと思つて見て居た。
 と、真砂町へ抜ける四角《よつかど》から、黒い影が現れた。ブラリブラリと俛首《うなだ》れて歩いて来る。竹山は凝《じつ》と月影に透して視て居たが、怎《どう》も野村らしい。帽子も冠つて居ず、首巻も巻いて居ない。
 其男は、火光の射した窓の前まで来ると、遽《には》かに足を留めた。女の影がまた瞬時《しばらく》窓掛に映つた。
 男は、足音を忍ばせて、其窓に近づいた。息を殺して中を覗つてるらしい。竹山も息を殺してそれを見下して居た。
 一分も経つたかと思ふと、また女の影が映つて、それが小さくなつたと見ると、ガタリと窓が鳴つた。と、男は強い弾機《ばね》に弾かれた様に、五六歩|窓側《まどぎは》を飛び退《すさ》つた。「呀ツ」と云ふ女の声が聞えて、間もなく火光がパツと消えた。窓を開けようとして、戸外《そと》の足音に驚いたものらしい。
 男は、前よりも俛首《うなだ》れて、空気まで凍つた様な街路《みち》を、ブラリブラリと小さい影を曳いて、洲崎町[#「洲崎町」は底本では「州崎町」]の方へ去つた。


 翌日、野村良吉が社に出たのは十時少し過であつた。ピクリピクリと痙攣が時々顔を襲うて、常よりも一層沈んで見えた。冷たい疲労の圧迫が、重くも頭脳《あたま》に被さつて居る。胸の底の底の、ズツト底の方で、誰やら泣いて居る様な気がする。何の為に泣くとも解らないが、何《いづ》れ誰やら泣いて居る気がする。
 気が抜けた様に※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]乎《ぼうつ》として編輯局に入ると、主筆と竹山と、モ一人の洋服を
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