居たが、十遍、二十遍と繰返してるうちに、何時しか気も落着いて来て眉が開く。渠は腕組をして、一向《ひたすら》に他の事を思ふまいと、詩の事許りに心を集めて居たが、それでも時々、ピクリピクリと痙攣《ひきつけ》が顔に現れる。
 軈《やが》て鉄筆《ペン》を取上げた。幾度か口の中で云つて見て、頭を捻つたり、眉を寄せたりしてから、「人祖この世に罪を得て、」と云ふ句を亜《つ》いで、
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人の子枕す時もなし。
ああ、
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と書いたが、此「ああ」の次が出て来ない。で、渠は思出した様に煙草に火をつけたが、不図次の句が頭脳に浮んだので、口元を歪めて幽かに笑つた。
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ああ、み怒りの雲の色、
審判《さばき》の日こそ忍ばるれ。
[#ここで字下げ終わり]
と、手早く書きつけて、鉄筆《ペン》を擱いた。この後は甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》事を書けばよいのか、まだ考へて居ないのだ。で、渠は火鉢に向直つて、頭《かしら》だけ捻つて、書いただけを読返して見る。二三遍全体を読んで見て、今度は目を瞑《つぶ》つて今書いた三行を心で誦《ず》し出した。
「人の子枕す時もなし、ああみ怒り……審判《さばき》の日……。」「人の子枕す……」然うだ、実際だ。人の子は枕する時もない。人の子は枕する時もない。世界十幾億の人間、男も、女も、真実《まつたく》だ。人の子は枕する時もない。実際然うだ。寝ても不安、起きても不安! 夢の無い眠を得る人が一人でもあらうか! 金を持てば持つたで悪い事を、腹が減れば減つたで悪い事を、噫、寝てさへも、寝てさへも、実際だ、夢の中でさへも悪い事を! 夢の中でさへも俺は、噫、俺は、俺は、俺は…………
 恐ろしい苦悶が地震の様に忽ち其顔に拡がつた。それが刻一刻に深くなつて行く。瞬一瞬に烈しくなつて行く。見ろ、見ろ、人の顔ぢやない。全く人の顔ぢやない。鬼? 鬼の顔とは全くだ。種々《いろん》な事が胸に持上がつて来る。渠はそれと戦つて居る。思出すまいと戦つて居る。幾何《いくら》圧しつけても持上がる。あれもこれも持上がる。終には幾十幾百幾千の事が皆一時に持上がる。渠は一生懸命それと戦つて居る。戦つて戦つて、刻一刻に敗けて行く。瞬一瞬に敗けて行く。
「俺は親不孝者だ!」と云ふ考へが、遂に渠を征服し
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