は凝然《ぢつ》と竹山の筆の走るのを見た儘、種々《いろん》な事が胸の中に急がしく往来して居て、さらでだに不気味な顔が一層険悪になつて居た。竹山も主筆も恰《あたか》も知らぬ人同志が同じ汽車に乗り合した様に、互にそ知らぬ態《さま》をして居る。何方《どつち》も傍に人が居ぬかの様に、見向くでもなければ一語を交すでもない。渠《かれ》は此《この》態《さま》を見て居て又候《またぞろ》不安を感じ出して来た。屹度俺の来るまでは二人で何か――俺の事を話して居たに違ひない。恁《か》うと、今朝俺の出社したのは九時半……否《いや》十時頃だつたが、それから三時間余も恁う黙つて居ると云ふ事はない。屹度話して居たのだ。不図すると俺の来る直《ぢ》き前まで……或は其時既に話が決つて了つて、恰度其処へ俺が入つたのぢやないか知ら。と、上島にも長野にも硯箱があるのに、俺ンのを使つたのは誰であらう。然うだ、此椅子も暖炉の所へ行つて居た。アレは社長の癖だ。社長が来たに違ひない。先刻《さつき》事務の広田に聞いて呉れば可《よ》かつたのにと考へたが、若しかすると、二人で相談して居た所へ社長が来て、三人になつて三人で俺の事を色々悪口し合つて、……然《さ》うだ、此事を云ひ出したのは竹山に違ひない。上島と云ふ奴酷い男だ。以前は俺と毎晩飲んで歩いた癖に、此頃は馬鹿に竹山の宿へ行く。行つて俺の事を喋つたに違ひない。好し、そんなら俺も彼奴《あいつ》の事を素破抜《すつぱぬ》いてやらう、と気が立つて来て、卑怯な奴等だ、何も然う狐鼠々々《こそこそ》相談せずと、退社しろなら退社しろと瞭《きつぱ》り云つたら可いぢやないか、と自暴糞《やけくそ》な考へを起して見たが、退社といふ辞《ことば》が我ながらムカムカしてる胸に冷水《ひやみづ》を浴せた様に心に響いた。飢餓《うゑ》と恐怖《おそれ》と困憊《つかれ》と悔恨《くい》と……真暗な洞穴《ほらあな》の中を真黒な衣を着てゾロゾロと行く乞食の群! 野村は目を瞑《つぶ》つた。
白く波立つ海の中から、檣《ほばしら》が二本出て居る様が見える。去年の秋、渠《かれ》が初めて此釧路に来たのは、丁度竹の浦丸といふ汽船が、怎《どう》した錯誤《あやまり》からか港内に碇泊した儘沈没した時で、二本の檣《ほばしら》だけが波の上に現はれて居た。風の寒い浜辺を、飢ゑて疲れて、古袷一枚で彷徨《うろつ》き乍ら、其檣を眺むるともなく眺めて
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