つたらう? 否、アノ卓子を俺が別の場所へ取除けちやつたら怎だつたらう? 女は二三歩後方にたじろぐ。そして、軽く尻餅を突いて、そして、そして、「許して下さい。」と囁やいて、暗《やみ》の中から真白な手を延べる。……噫、彼奴《あいつ》、彼奴、小野山の奴、アノ畜生が来た許りに……。
 渠は恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を止度もなく滅茶苦茶に考へ乍ら、目的《あて》もなく唯町中を彷徨《うろつ》き廻つて居た。何処から怎《どう》歩いたか自身にも解らぬ。洲崎町の角の煙草屋の前には二度出た。二度共硝子戸越に中を覗いて見たが、二度共例の恥かしがる娘が店に坐つてなかつた。暗い街から明るい街、明るい街から暗い街、唯モウ無暗に駆けずり廻つて、同じ坂を何度上つたか知れぬ。同じ角を何度曲つたか知れぬ。
 が、渠は矢張り明るい街よりも、暗い街の方を多く選んで歩いて居た。そして、明るい街を歩く時は、頭脳《あたま》が紛糾《こんがら》かつて四辺《あたり》を甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》人が行かうと気にも止めなかつたに不拘、時として右側に逸《そ》れ、時として左側に寄つて歩いて居た。一町が間に一軒か二軒、煙草屋、酒類屋《さかや》、鑵詰屋、さては紙屋、呉服屋、蕎麦屋、菓子屋に至る迄、渠が其馬鹿に立派な名刺を利用して借金《かり》を拵へて置かぬ家は無い。必要があればドン/\借りる。借りるけれども初めから返す予算《よさん》があつて借りるのでないから、流石に渠は其《その》家《うち》の人に見られるのを厭であつた。今夜に限らず、借金のある店の前を通る時は、成るべく反対の側の軒下を歩く。
 幸ひ、誰にも見付かつて催促を受ける様な事はなかつた。が唯一人、浦見町の暗闇《くらがり》を歩いてる時に、
『オヤ野村さんぢやなくつて? マア何方へ行《いら》つしやるの?』と女に呼掛けられた。
 渠は唸る様な声を出して、ズキリと立止つて、胡散臭《うさんくさ》く対手を見たが、それは渠がよく遊びに行く郵便局の小役人の若い細君であつた。
『貴女《あなた》でしたか。』
と云つて其儘行過ぎようとしたが、女がまだ歩き出さずに見送つてる様だつたので、引返して行つて、鼻と鼻と擦合《すれあ》ひさうに近く立つた。
『貴女お一人で何方へ?』

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