乍ら、垢づいた首巻を巻いて居たが、階段《はしご》を降りる時は再《また》顔を顰蹙《しか》めて、些《ちよい》と時計を見上げたなり、事務の人々には言葉もかけず戸外《そと》へ出て了つた。と、鈍い歩調《あしどり》で二三十歩、俛首《うなだ》れて歩いて居たが、四角《よつかど》を右に曲つて、振顧《ふりかへ》つてもモウ社が見えない所に来ると、渠は遽《には》かに顔を上げて、融けかかつたザクザクの雪を蹴散し乍ら、勢ひよく足を急がせて、二町の先に二階の見ゆる共立病院へ………………。
解雇される心配も、血だらけな母の顔も、鈍い圧迫と共に消えて了つて、勝誇つた様な腥《なまぐさ》い笑が其顔に漲つて居た。
四年以前、野村が初めて竹山を知つたのは、まだ東京に居た時分の事で、其頃渠は駿河台のトある竹藪の崖に臨んだ、可成な下宿屋の離室《はなれ》に居た。
今でも記憶《おぼ》えて居る人があるか知れぬが、其頃竹山は郷里に居ながら、毎月二種か三種の東京の雑誌に詩を出して居て、若々しい感情を拘束もなく華やかな語に聯《つら》ねた其詩――云ふ迄もなく、稚気と模倣に富んでは居たが、当時の詩壇ではそれでも人の目を引いて、同じ道の人の間には、此年少詩人の前途に大きな星が光つてる様に思ふ人もあつた。竹山自身も亦、押へきれぬ若い憧憬《あこがれ》に胸を唆《そその》かされて、十九の秋に東京へ出た。渠が初めて選んだ宿は、かの竹藪の崖に臨んだ駿河台の下宿であつた。
某新聞の文界片信は、詩人竹山静雨が上京して駿河台に居を卜したが近々其第一詩集を編輯するさうだと報じた。
此新聞が縁になつて、野村は或日同県出の竹山が自分と同じ宿に居る事を知つた。で、渠は早速名刺を女中に持たしてやつて、竹山に交際を求めた。最初の会見は、縁側近く四つ五つ実を持つた橙《だいだい》の樹のある、竹山の室で遂げられた。
野村は或学校で支那語を修めたと云ふ事であつた。其頃も神田のさる私塾で支那語の教師をして居て、よく、皺《しわ》くちやになつたフロツクコートを、朝から晩まで着て居た。外出《でかけ》る時は屹度|中山高《ちゆうやまたか》を冠つて、象牙の犬の頭のついた洋杖《ステツキ》を、大輪に振つて歩くのが癖。
其頃、一体が不気味な顔であるけれども、まだ前科者に見せる程でもなく、ギラギラする眼にも若い光が残つて居て、言語《ことば》も今の様にぞんざい[#「ぞんざ
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