でて昇つて行く柔かな煙を見ると、モウ耐らなくなつて『何卒《どうぞ》一本。』と竹山の煙草を取つた。『咽喉も少し変だどもねす。』
『そらア良くない。大事にし給へな。何なら君、今日の材料《たね》は話して貰つて僕が書いても可いです。』
『ハア、些《ちつ》と許りですから。』
込絡《こんがら》かつた足音が聞えて、上島と長野が連立つて入つて来た。上島は平日《いつ》にない元気で、
『愈々漁業組合が出来る事になつて、明日有志者の協議会を開くさうですな。』
と云ひ乍ら、直ぐ墨を磨り出した。
『先刻《さつき》社長が見えて其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事を云つて居た。二号|標題《みだし》で成るべく景気をつけて書いて呉れ給へ。尤も、今日は単に報道に止《とど》めて、此方《こつち》の意見は二三日待つて見て下さい。』
長野が牛の様な身体を殷懃《いんぎん》[#「殷懃《いんぎん》」はママ]に運んで机の前に出て、
『アノ商況で厶《ござ》いますな。』と揉手をする。
『ハ、野村君は今日頭痛がするさうだから僕が聞いて書きませう。』
『イヤソノ、今日は何にも材料がありませんので。』
『材料が無いツて、昨日と何も異動がないといふのかね?』
『え、異動がありませんでした。』
『越後米を積んで、雲海丸の入港《はひ》つたのは、昨日《きのふ》だつたか一昨日《おととひ》だつたか、野村君?』と竹山が云つた。長野が慣れるうち、取つて来た材料を話して野村が商況――と云つても小さい町だから十行二十行位のものだが――を書く事にしてあつたのだ。
『ハア、昨日の朝ですから、原田の店あたりでは輸出の豆粕が大分手打になつたらうと思ひますがねす。』
『遂《つひ》聞きませんでしたな。』と云つて、長野はきまり[#「きまり」に傍点]悪げに先づ野村を見た目を竹山に移した。
『警察の方は?』
『違警罪が唯《たつた》一つ厶いました。今書いて差上げます。』と硯箱の蓋をとる。
野村は眉間に深い皺を寄せて、其癖|美味《うま》さうに煙草を吸つて居たが、時々頭を振つて見るけれど、些《ちつ》とも重くもなければ痛くもない。咽喉にも何の変りがなかつた。軈《やが》てまた机に就いて、成るべく厭に見える様に顔を顰蹙《しか》めたり後脳を抑へて見たりし乍ら、手帳を繰り初めたが、不図髯を捻つて居る戸川課長の顔を思出し
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