《あんな》時でも那※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《あんな》氣を、と思ふと其|夫《をつと》の、見るからに物凄い鬚面が目に浮ぶ。心は直ぐ飛んで、遠い遠い小坂の鑛山へ行つた。物凄い髯面許りの坑夫に交つて、十日許りも坑道の中で鑛車《トロツコ》を推した事があつた。眞黒な穴の口が見える。それは昇降機《エレヴェーター》を仕懸けた縱坑であつた。噫、俺はアノ穴を見る恐怖に耐へきれなくなつて、坑道の入口から少し上の、些と許り草があつて女郎花の咲いた所に半日寢ころんだ。母、生みの母、上衝《のぼせ》で眼を惡くしてる母が、アノ時甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》に戀しくなつかしく思はれたらう! 母の額には大きな痍があつた。然うだ、父親が醉拂つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の額が目の前に……。
 ハッとして目を開いた野村は、微かな動悸を胸に覺えて、墨磨る手が動かなくなつて居た。母! と云ふ考へが又浮ぶ。母が親ら書く平假名の、然も、二度三度繰返して推諒しなければ解らぬ手紙! 此間返事をやつた時は、馬鹿に景氣の可い樣な事を書いた。景氣の可い樣な事を書いてやつて安心さしたのに、と思つて四邊《あたり》を見た。竹山は筆の軸で輕く机を敲き乍ら、書きさしの原稿を睨んで居る。不圖したら今日締切後に宣告するかも知れぬ、と云ふ疑ひが電の樣に心を刺した、其顏面には例の痙攣《ひきつけ》が起つてピクピク顫《ふる》へて居た。
 内心の斷間なき不安を表はすかの樣に、ピクピク顏の肉を痙攣《ひきつ》けさせて居るのは渠の癖であつた。色のドス黒い、光澤《つや》の消えた顏は、何方かと云へば輪廓の正しい、醜くない方であるけれども、硝子玉の樣にギラギラ惡光りのする大きい眼と、キリリと結ばれたる事のない脣とが、顏全體の調和を破つて、初つて逢つた時は前科者ぢやないかと思つたと主筆の云つた如く、何樣《なにさま》物凄く不氣味に見える。少し前に屈んだ中背の、齡は二十九で、髯は殆ど生えないが、六七本許りも眞黒なのが頤に生えて五分位に延びてる時は、其人相を一層險惡にした。
 渠が其地位に對する不安を抱き始めたのは遂此頃の事で、以前郵便局に監督人とかを務めたといふ、主筆と同國生れの長野が、編輯助手として入つた日からであつた。今迄上島と二人で隔日に校正をやつて居た所へ、校正を一人入れるといふ竹山の話は嬉しかつたものの、逢つて見ると長野は三十の上を二つ三つ越した、牛の樣な身體の、牛の樣な顏をした、隨分と不恰好で氣の利かない男であつたが、「私は木下さん(主筆)と同國の者で厶いまして、」と云ふ挨拶を聞いた時、俺よりも確かな傳手《つて》があると思つて、先づ不快を催した。自分が唯十五圓なのに、長野の服裝の自分より立派なのは、若しや俺より高く雇つたのぢやないかと云ふ疑ひを惹起したが、それは翌日になつて十三圓だと知れて安堵した。が、三日目から今迄野村の分擔だつた商況の材料取と警察※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]りは長野に歩かせることになつた。竹山は、「一日も早く新聞の仕事に慣れる樣に。」と云つて、自分より二倍も身體の大きい長野を、手酷しく小言を云つては毎日々々|使役《こきつか》ふ。校正係なら校正だけで澤山だと野村は思つた。加之《のみならず》、渠は恁※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《こんな》釧路の樣な狹い所では、外交は上島と自分と二人で十分だと考へて居た。時々何も材料が無かつたと云つて、遠い所は※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]らずに來る癖に。
 浮世の戰ひに疲れて、一刻と雖ども安心と云ふ氣持を抱いた事のない野村は、適切《てつきり》長野を入れたのは、自分を退社させる準備だと推諒した。と云ふのは、自分が時々善からぬ事をしてゐるのを、渠自身さへ稀《たま》には思返して淺間しいと思つて居たので。
 渠は漸々《やう/\》筆を執上《とりあ》げて、其處此處手帳を飜反《ひつくりか》へして見てから、二三行書き出した。そして又手帳を見て、書いた所を讀返したが、急がしく墨を塗つて、手の中に丸めて机の下に投げた。又書いて又消した。同じ事を三度續けると、何かしら鈍い壓迫が頭腦に起つて來て、四邊《あたり》が明るいのに自分だけ陰氣な所に居る樣な氣がする。これも平日《いつも》の癖で、頭を右左に少し振つて見たが、重くもなければ痛くもない。二三度やつて見ても矢張同じ事だ。が、今にも頭が堪へ難い程重くなつて、ズクズク疼《うづ》き出す樣な氣がして、渠は痛くもならぬ中から顏を顰蹙《しか》めた。そして、下脣を噛み乍らまた書出した。
『支廳長が居つたかえ、野村君?』
と突然《だしぬけ》に主筆の
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